別に直接的じゃないけどそれをされるとめちゃくちゃ蔑ろにされているような気分になる、ということが立て続けにあって、でもよくよく振り返ればずっとそうだったかもしれない、ということにも気づいてしまって、気持ちがささくれにささくれた。気温が下がりはじめて、とみに頭の具合がよろしくない。ふいに「なんかめちゃくちゃ世界を愛したいぜ、でも愛させてくれないこの世が大嫌!怨!憎!!」みたいな気持ちになったが、それは明らかに能動的な加害性なので大人しくステッパーを踏んで紐を編むことにした。足と手を動かすことはめちゃくちゃ大事。棒針も鍵針も頓挫して編み物に祝福されない人生だろうと思っていたわたしに与えられたものはただ一本の紐を編むだけのなにがしかよ。いや名前はついていて、それはパラコード編みとか、マクラメ編みとかいわれるものだけれども、たいして編み方を習得しようともせずに、ただ編んでいたらなにかができました、ということを繰り返している(だから編み物ができないんじゃないか?)(それはねえ、ほんとにそう)。結局ふたつかみっつ、なにかキーホルダー的なものができあがって、多少溜飲は下がったけれども、なんとなくまだむかついてることはむかついている。例えその人(この人はマジョリティだ)がマイノリティの権利を口にしても、それは先人が道具もないところから精いっぱい整地したところにブルドーザーで入るようなものであって、有難迷惑なんじゃないか。それに、マイノリティの味方してマジョリティ免罪みたいなことも引き起こしていて、それは、重大な事案だとすら思っている。正しさよりも誠実さでしょうよ。声の大きさよりも言葉のたしかさでしょうよ。大切なことは、踏みにじられてきたものたちが、前に進む時にまた誰かを踏みにじらないことではないのか。前に進むためにまた誰かを踏んでは、意味がないのではないか。それがのろまに見え、愚かしく思えるなら、それはその人の立っている所がいかに「恵まれている」かを示しているのではないか。こんな年の取り方はしたくないけれども、人間をこのように作り上げてしまうあらゆる構造や制度にあらためて唾棄オブ唾棄でファッキン全方位。未だにわかってほしいと思い続けているけれど、わかってもらえなくても別にいいんだよな。ただ「あんたはそうなんやね」と席があることを示してほしいだけなんだよな。席がないから怒ってんだよな。普通とか常識とか、そういうわかりきった風の無知をひけらかされたうえで他者を排することに、ずっと怒ってんだよな。生きることを怠けてんじゃねえっつうの。語れよな。