2026年1月13日

辺境編集室勝手口
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公開:2026/1/13

これまで見てみぬふりをしてきた仕事を片付け、その仕事を提出してから定例会議に行き、買い物や手続きとかを済ませて帰ってきたら吹雪で頭が痛くて身体が重くてうおおおんもうなにもしたくないよおおおおおおん。ちょっと昼寝したが余計に頭と身体のスイッチがオフになり、もうなにもできない、しないぞ。と思っていても自分以外に炊事も洗濯もしてくれないので、仕方なくせこせこと動いている。ああ、おれの未来ってどうなるんだろう、って思ってみたりするが、そんな杞憂が響かないくらい頭が痛い。社会のあれこれに怒れないくらい頭が重い。えっ、すごい、結構疲れているのかもしれない。怒りをリトマス試験紙にするな。ぼんやり思っていることは、被害者になることが社会参画のイニシエーションにはならないでほしい、ということ。被害者であるからなにをしてもいい、なにを訴えてもいい、ということでは絶対にないし、被害者救済が遅れに遅れに遅れているこの日本社会で、被害者が声を上げたり国民や司法に訴えかけることは止めるどころか国民全体が自分事として考え変革していく必要のあるのは大前提である。しかし、あまりにも「当事者」の言説が他を排斥するものであってはならない、ということも同時に考えなければならないわけだ、なぜなら人間は面倒くさく、変化を厭い、まるで魔法のように明日から全員がハッピープライムパラダイムを迎えるわけではないからだ。やべえ風呂わいた。ともかく、それらは併存して並走して、いずれの立場の人間にも幸福と責任達成をもたらす必要がある。というときに、「言説」の太字ボールド加工として当事者性を利用し、自ら迎えに行くような悲しきイニシエーションが発生しませんように、と祈ってやまないのだ、ちょっと的外れかもしれないが。別に当事者じゃなくても声を上げていいだろ、当然当事者の声を食ってはいけないけれども。もちろん当事者にしかわからないことはあるし、いろんな当事者がいるのだから「当事者」がステレオタイプ化することは避けなければならないが、それでもこの社会に存在しているのは”その”当事者だけではないのだ。今のよくわからんナショナリズムは、ここから発生しているような気がしてやまない。だから一旦は誰もが当事者として自分を受けとった上で、一歩前に踏み出す必要があるのではないか。つかまず誰もが「自分」を知らないんじゃね?とも思う。当事者ばかりが自分を見つめざるを得ない構造になっている側面はある。だからつまり、マジョリティよ鏡を見てから話をしろ、ということだ、よくわからん!! 風呂入る。

@ba9co8
日記じゃなければ小説でもなく随筆にもならない、なんにもおもねらない