彼は、私が属していた某大学の中国哲学文学科に留学してきた中国人だ。
日本語はアニメで覚えたという猛者。愛するアニメはエヴァンゲリオンと聖闘士星矢。幼い日の夢は射手座の黄金聖闘士だ。
日本に来てから特撮にもどハマりした、魂の深淵までオタクだ。
私は幼少期から中国が身近だったせいか、ほんの少しだけ普通話(中国の共通語)を読み書きして話せる。
彼はアニメを通じて覚えた、ちょっとズレた日本語を話す。
大学時代、オタク趣味で意気投合した私たちは、日本語と少々の普通話を交えて交友を深めていった。
残念ながら、男女の関係に発展するオチはない。彼とは今も、日本のアニメや特撮について熱く狂おしく語り合う、純然たる同志だ。
彼とのコミュニケーションは、時に楽しく、時にもどかしい。お互い母国語が違うし、育ってきた文化や背景も違うから、相手の社会にない概念を言葉にするのが難しいのだ。
日常生活なら感じることのない齟齬も、作品についての考察を深める中ではたびたび、「違う違うそうじゃない」がメロディと共に顔を出す。
彼は異なる母国語を持つ日本語話者の中では、かなり優秀な部類だろう。イントネーションにやや「アニメの声優っぽさ」を感じるが、いわゆる外国人の日本語的な不自然さもない。
彼の出身を知らなければ、ちょっと大げさな喋り方をするオタクっぽい日本人に見えるはずだ。
しかし、ほんの少しの違いが大違い。必死に言葉を尽くしてもお互いの感覚が近付かないことがある。
細かなニュアンスが伝わらずもどかしい思いをするたび、たくみな日本語を操る彼は、隣の国の人だと思い出すのだ。
そんな彼との距離を一番感じたのは、町中華だ。
ゴジラでも、エヴァンゲリオンでも、ウルトラマンでも、聖闘士星矢でもない。
町中華だ。
大学の近くにあった町中華に入ったとき、彼はメニューを見ながら首を捻った。
彼曰く。
「このラーメンの味が想像できない」
困惑する彼が見せるページを覗き、私は問うた。
「これ(白湯)なんて読む?」
「さゆ」
「違う、ぱいたん」
「ぱいたん?」
「こっち(棒々鶏)は?」
「ばんばんじー」
「こっち(鶏白湯)は?」
「じーぱいたん」
「違う、とりぱいたん」
彼の顔には?がびっしり並んでいた。日本語なら白湯は「さゆ」だし、ただのお湯だ。
でもぱいたんと言うならスープだ。つまり白湯スープはスープスープだ。
棒々鶏はバンバンジーなのに、なぜ鶏白湯だととりぱいたんなのか。
私だって、どうしてそうなったのか経緯がよくわからない。
ただ、それは日本人にとって、鶏白湯(とりぱいたん)スープのラーメンなのだ。私が産まれる前からそうなっている。
多分、日本にはなかった白湯(ぱいたん)の概念を丸ごと取り込んで、すでにいた鶏と合体した結果、爆誕したのが鶏白湯スープなのだ。
しかし真面目な彼にとって、日本語の「白湯」といえば開水なのだ。よもやぱいたんと呼んで意味が母国語のスープに化けているとは思うまい。
「さっぱりした味でおいしいと思うよ、背脂系苦手でしょ」
こってりとチャーシューが乗っているチャーシュー麺を頼みながら言う私の前で、彼は頭を掻き毟り、異国の言葉の理不尽に対する適切な言語化に失敗した思いの丈を口にした。
「日本語おぉおお~~~~!!!!」
そういうとこやぞ。そんな声が聞こえてきそうだった。
あれから20余年。語彙力が増えた彼は、しかし、相変わらず日本語の自由さに振り回されては、日本語ぉ~~!!!と叫んでいる。
しょうがない。日本語の名詞の動詞化はあまりにも文法を無視して自由すぎる。
しかし、それもあと何年だろうか。
ここ数年、飛躍的にAI翻訳の精度が上がり、言葉の壁は彼と町中華を食べた頃よりもはるかに低くなっている。
やがてAIが文化背景の違いも乗り越えて、適切な言葉に翻訳する日も来るのだろう。
だからだろうか。
私はちょっぴり自由すぎる日本語に彼がのたうち回るたび、異国で生まれ育ち、堪能な日本語と共に日本に根を下ろした友人との言葉の壁を、ちょっぴり愛おしく感じるのだ。