発熱39度。悪寒と関節痛に苦しみながら迎えた19:20分。開幕早々大好きな人たちの顔が映り、ほっとした。横たわったまま、隔離のためノートパソコンの画面上ではあるけれど、紅白歌合戦の画面を正面から見るのは何年ぶりだろうか。
正直、ほとんどのシーンは覚えていない。というか眠っていた時間の方が長かった。けれど舞い落ちる花びらと、バーノンさんのけん玉と、「アイドル」のステージは不思議と目が覚めてしっかり見ることができた。
舞い落ちる花びら、嘘みたいに綺麗だった。
あの時全身の痛みが和らいで、朦朧としていた意識もスッとほどかれて、肺の奥まで息を吸うことができた。
カットされていたのもあって本当に一瞬だったけれど、親戚や、何人かの友人から「見たよ、綺麗だった」というメッセージが送られてきて、胸がいっぱいになった。
舞い落ちる花びらは以前一度noteを書いたことがあるけれど「KPOPアイドルなのに」なんて枕詞が必要ないくらい美しい作品だ。
描かれている情景そのものが美しいのだからどの言語であってもきっと美しいのだけれど、それでも「侘び寂び」というものの気配を感じて胸の奥がぎゅっとなる。
本国での活動と並行しながら日本ベストアルバムを出せるほどに日本語の曲を作り続けて来てくれた彼らの歌はどれをとっても紅白に相応しいに決まっているけれど、たとえば「ひとりじゃない」や「あいのちから」がCARATとの往復書簡の一片だとするならば「舞い落ちる花びら」はそれこそ桜の大木のように行き過ぎる人の前にも等しく花びらを届けるような印象がある。
もちろんどの曲も特別で、どの曲も開かれていて、どの曲も疎外することはないのだけれど、「舞い落ちる花びら」の美しさは、そういう絶対性が比較的強いと思っていて、そしてそれは他でもない彼らが2020年の春にそういう祈りを宿したからなのだろうと思えてならなくて、だからそれを見た人たちが「綺麗だった」と送ってくれたことがとてつもなく誇らしかった。
だからこそ、これはどこに向けたらいいのか分からないけれど「アイドル」のステージが「愛してるって嘘で詰むキャリア」「この嘘はとびきりの愛だ」といった歌詞と共にあったことがなんだか悔しくて。
この人たちに、それを踊らせるのかと。
分かっている。
あの楽曲がそもそも「推しの子」というアニメのストーリーに沿った主題歌として最適に作られているのであってアイドルという職業を揶揄する意図はないことも、地上波ではないとはいえ日本語歌詞の曲としては珍しく韓国の音楽番組でステージをするくらい大衆に受け入れられて、だからこそあのステージが実現したのだということもウジさんはじめSEVENTEENと YOASOBIがリスペクトし合う関係である以上こんなのはいちファンのエゴでしかないことも…
でも「嘘」って聞こえが悪いのに信頼しやすい言葉で、特にアイドルという煌びやかでいて柔らかな存在を前にすると外野にとっては手を伸ばしやすいワードじゃないだろうか。
「愛してる」って、彼らは言ってくれるけれど、それを嘘だと思ったことはないけれど、そもそも「愛してる」と言うことはアイドルの仕事だろうか。
どうしても抽象的な話になってしまうけれど「キャリアを何で詰むか」という意味での「仕事」について彼らの言葉を借りるなら「良いステージをお見せしたい」という部分だと私は思っていて、そこについて彼らが嘘をついたり誠実じゃなかったことがこれっぽっちもないことなんて、CARATじゃなくてもあの「舞い落ちる花びら」を見れば絶対にわかる。絶対。
なのにアイドルを馬鹿にしたいだけの人たちの手を伸ばしやすい場所にある言葉とともに彼らの姿があったことがなんだかとても悔しくて。
でもそんなのものともせずに驚くほど眩い光を放ちながら彼らがステージに立つから敵わない。
私たちの完璧で究極の、最高で最後のアイドル。
あと伊藤蘭さんのステージ、正直景色しか覚えていないし詳しいことは何もわからないんだけど、すごく希望だった。
例えば50年後、あなたもシワが増えて、私もシワが増えて、お互い今のようには身体が動かなくなったとしても、もしも、その時にもまだ名前を呼ばせてもらえることができたなら、「君に続けて泣いて笑って全ての愛を手渡す夜」が訪れたなら、これほど幸せなことはないだろうなと思った。
そんなに永くアイドルでいてほしいなんて本当はいうのも恐ろしいけれど、できる限り長くSEVENTEENとしてやっていきたいと言ってくれているうちは、想像するだけ許してほしい。