自分にとっての恋ってなんだろうっていう話をするつもりで今からボールを投げるけれど、ちゃんと着地するかはわからない。
最近板橋ハウスにハマっている。板橋区でルームシェアをするおおよそ30歳の男性3人が、コントとホームビデオの中間のような動画を毎日投稿してくれているYouTubeのチャンネルだ。年末年始でインフルの高熱にうなされて情緒不安定になり、曲を聴くのはおろか「SEVENTEEN」という文字を見るだけで涙が止まらなくなってしまうような状態でもうちょっと穏やかな気持ちになれる暇つぶしを探してたどり着いた。
最初に見た動画はおすすめに流れてきた「会話が成立したら負けゲーム」だった。部屋の真ん中で、タイトルの通り会話が成立しないように喋っていくだけの動画で、彼らがどういう人なのか全くわからなかったけれどゲームと笑いをどちらも成り立たせる話術がどう見ても素人ではないよなあと思って調べ始めた。
3人とも神保町吉本の芸人さんで、それぞれに別のコンビを組んでいる。「笑い」について真剣に語り合った夜に、一緒に住めば家でもずっとお笑いができるという結論になったのが始まりで、もともとカメラを回さなくてもずっとコントのようなことをしていたそうだ。
私は大学時代和牛が好きで、その勢いで吉本の社員の面接話受けたくらいだったけれど、SEVENTEENを好きになってからは元々好きだったもの全てに一区切りつけたので、芸人さんを好きになるのは久しぶりだった。
特定の芸人さんを応援していたのは和牛だけだったけれど、もともと「お笑い」というものは私にとって大切だった。「笑い」というもの自体どこかに「意外性」を必要とするものだと考えていて「意外性」というものが「常識」「ふつう」を前提とするものである以上、そして「笑う」という行為「馬鹿にする」という態度が伴うこともある以上、不特定多数に届きやすくなった社会では今まで以上に「お笑い」には難しい面があると思う。
けれど私は立川談志さんの「落語とは人間の業の肯定である」という言葉にも通ずるように、正しさでも強さでも実用性でもなんなら美しさでもなく「オモロい」ということが一つの強烈な摂理として働く世界で生きている人たちがいることにどこかで救われてきた。
「オモロければいい」で何でも許されるわけじゃないけれど、「オモロければいい」で動かしようのない自分や他人や環境を許していこうとする前向きなエネルギーを持っていて、それを話術や構成といった「芸」に昇華していくことを生業とする芸人さんの姿を見て、私も生きていこうと思った日は一度や2度じゃない。
お笑いの話が長くなってしまったけれど、板橋ハウスの3人も例に漏れずそういう世界に生きる人たちで、彼らのネタがそれ単体で好きかといえば今はまだそこまでじゃないけれど、そういうネタを作っていこうとしている彼らという人間がとても好きで応援していきたいなと思っている。
で、ふと気づいたことがある。
私の恋愛感情は話のオモロさ(お笑いの文脈で)や会話のテンポと紐付いているのかもしれない。
私は元々息をするように恋をしていた人間で、恋に恋してたし依存的な意味も多分にあって、衝動的な部分も大きいんだけれど、ストレートに言ってしまえば惚れっぽく、割とチョロい。
SEVENTEENを好きになってから、そしてCARATとしてみなさんと接するようになってから本当に満たされていて、恋がなくとも人を愛せて、しかも今まで何でも埋めることの叶わなかった穴が埋まっていった。恋愛感情というもの自体が3年以上湧き上がってこなかったので自分が恋を必要としない人間になったんだろうなと思ってた。必要としない、という意味では間違いない。
けれど恋愛感情が消滅したか、という意味ではどうやら違ったらしい。堂々と言える話じゃないけれど板橋ハウスのメンバーに対してはささやかな恋愛感情が芽生える瞬間がある。本当にささやかだから世間でいう恋じゃないなあと思うけど、私はこの気持ちを恋と呼んでいたなあと懐かしくなった。
特に竹内くんと吉野くんを見ている時が顕著で、多分喋りのペースと言葉の言い回しとかの痛快さが刺さってるんだろうなと自分なりに思っている。そういう瞬間に「あ、私こういうひとと生活を送りたい」という欲求(敢えてこう呼ぶ)が湧く。
優しいなあ(優しいけど)とか、顔がかっこいいなあとか、人格者だとか、生活が安定してるとか、自分を可愛がってくれるとか…そんなことより楽しくおしゃべりしたい。多分その欲求が私は強いのだと思うし、めちゃくちゃ味気ない話をしてしまうと、私の場合会話のやり取りのテンポや言い回しがツボに入った時に脳内に分泌される何かが恋愛の時に分泌される何かと同じような動きをするんじゃないかとすら思っている。要は快感だ。
先述したように、私が生きていく中ではSEVENTEENとCARATの方が恋愛よりも必要不可欠だ。それは「オモロい」では片が付かない話だし、もっと会話のペースも落とすし、すり合わせるし、何なら言葉を手放すことも選ぶ。それはきっともう他では手に入れられない世界で、死ぬまでに出会えただけでも超絶ラッキーだ。
けれどもし私が敢えて誰かと結婚をして共に生活することを考えるとするならば、そういう満たされ方に加えて吉野くんとか竹内くんくらいのテンポでオモロい喋りをできる人じゃなきゃ嫌なんだろうなあ(そんなひとはその辺にいません)とぼんやり思ったので、書き残してみた。