どこまでが「自我」なのか

まくら
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記憶が正しければ大体4年前くらいから「自我」という言葉をTLで見かけるようになったと思う。

当時は自我という意味がわからず「生きているだけで俺は俺という自我のもとに生きているし発言の傾向も固定されてしまうが…?」と思っていたけれど、最近になってようやくオタクが使う「自我」の意味がわかってきた。なんとなく。

しかし、自我を完全に隠すというのは本当にできるのかという疑問はずっと抱いていて。何故そう思うのかというと、人間、どうしても自分の育った環境や価値観によって物事を見る時にフィルターがかかってしまうと思うからだ。

AとBというキャラクターが一緒の空間にいたとして、それを見て抱く感情は色々あると思う。私は二次創作BL大好きオタクなので付き合って欲しいな〜と思う一方で先っぽだけ別れて欲しいとも思う。

自分の感情だけで「離別」を押し付けないように色々な考察の下この二人は別れる可能性が高い!という話をするが、冷静になってしまえばそれは妄想だし、はっきりいうと自分の願望を押し付けているにすぎないのだ。

その願望の正体を切り開いていくと、それは自我につながるのではと思ってしまう。

私が「離別」を求める理由には色々ある。生きている人間が身近で体感しやすいジェットコースター感情だから共感をしやすい。どんな世界の人間でも遭遇する一大イベントでもある。大体の離別はほろ苦いからフィクションの中だけでも美しくあって欲しいという願いも込めている。

それらの理由を細分化していくと、さまざまな関係性で自分がうまく人間と別れることができなかったから…笑って「さよなら」と言えなかったから、だから願望をフィクションに押し付けているんじゃないかという結論に至ってしまう。

そうなると、じゃあ私の創作そのものが「自我」の塊なんじゃないかと思って、少しつらくなる。

なんて色々言ってはみたけど、願望を自分の手で作り上げるのが二次創作なんじゃ〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!とも思っているしこっちの感情の方が強いので言うほど悩んだりしていないです。

ただ「じゃあ自我ってなんだろう?」と思うたびに考えるし、どこまで薄めれば自我がない人間になれるのかなとは、いつも思っている。

@bedsides
オタクが眠れない時に書く、頭の整理整頓。