私は人間の生きる喜びとは自然な状態であることと思う。ここで言う自然とは、森や川、動物といった自然ではなく、「あるがままの(自らの然るべき)姿」を指す。(前者を言葉で定義するならば人工と対をなす"天然"である)。人間のあるがままの姿とは何だろうか。一度動物に視点を抽象化してみよう。動物は生きるために食事をし、種の存続のために子孫を残す。何のために?おそらく目的は無いはずだ(そのような知能は動物にはなさそうに見える)。つまり、動物のあるがままの姿は生存欲求という基本的で魂の底から欲し求める「欲求」を無目的に満たすことであると考えられる。視点を人間に戻そう。人間は動物の一種であるが、そのほかの動物との違いは何か。それは知能とそれに伴う文化的発展だ。知能の発達による認識の多面化と文化的発展の結果、生存欲求(最も根源的に生命活動を継続するという意味での)以外の欲求が芽生え始めた。それが人間が魂の底から求める基本的な5つの欲求「愛、生存(長生きしたいなど)、力、自由、楽しみの欲求」と考える。その反面、知能を持ったことで人間はあるがままでない姿も想像できるようになった。他者の目線、誰かに押し付けられたあるべき姿、抑圧、恨み、恐れ。これらはあるがままの姿から程遠い、魂の底から求めるものを阻害する外的なコントロールを受けた状態である。この考察から、私は人間のあるがままの姿とは、動物がそうであるように、外的コントロールを省みず無条件にかつ無目的に自分の「人間の基本的な5つの欲求」と言う目的を追い求めることであり、これを充足させることで魂が求めるものが満たされ「生きる喜び」を感じると考える。動物のように極めて自然的行動が根底にありながら、しかし人間的に知能を用い、自らの描く上質世界、ミッション、ビジョンを追い求める。これが世にいう、「やりたいことをやって生きる喜びを感じている」状態である。