小学生のころはそこそこに近所の人気者だった。毎日のように学校帰りに友達が家に遊びにきて、一日に10人ぐらい同じ部屋にいて、みんなでファミコンをした。
我が家に最初に来たファミコンのソフトはテトリスとドラゴンボール3悟空伝だった。サンタクロースに頼んだのはドラクエ3だったので、ツリーの下にあったプレゼントはうれしかったような期待外れのような感情だったのを今でもおぼえてる。それでも初めてのゲームに夢中になった。悟空伝をクリアしたらドラクエ3を買ってもらえることになり、友人と一緒に必死でクリアしたもんだった。
ドラクエ3を無事手に入れた俺は、結果的にクラスでドラクエ3を入手した初期メンバーになった。クラスのグループみんなで集まって自分のプレイ画面を見てみんなで興奮した。アリアハンのある大陸からロマリアにぬけたときの「すっげえええええ旅はこっからだあぁ」の感覚は忘れられない。そしてイシスでボッコボコにやられた。そんな体験をみんなで過ごしていたら、ドラクエ3は我が家でみんなでクリアすることになった。コントローラをかわりばんこにまわして、順番にプレイした。エジンベアの謎を解くのにみんなであーだこーだ言い合った。
出発のときの職業はおもしろくいきたかったので、勇者、武闘家、商人、遊び人だった。ひたすら薬草で回復する旅だったけど、遊び人は急に賢者になり、商人は街を立てた。偶然がドラマを生んで、みんなで選んだ職業は、てんしょくをした上で進化をしたものもいれば、誰かの役にたつために去っていったものもいた。今考えれば、社会を先に感じれたような気もするけど、賢者になったときも、うれしさよりも遊び人への愛着がありすぎてちょっとさみしかった。商人と別れなければいけないときは友達数人が泣いてた。
みんな、ドラクエ3の各職業にとても愛着をもっていた。商人と別れて、男戦士をいれた。女をパーティにいれたいっていうほどマセたやつはひとりもいなかった。むしろそういうのはなんか恥ずかしかった。
なんであんなに愛着をもってドラクエに夢中になっていたんだろう?なんであのとき、女の子を仲間に連れて行くのがはずかしかったんだろう?
今思うと、どのキャラクターにもくっきりとデザインがあり、自分たちの中でありありと生きていたからだったのだと思う。
鳥山明が描いた女性キャラクターはかっこよくて、なんかちょっと大人にみえた気がする。そして、ドラゴンボールで見たいろんなキャラクターとダブり、どこか大人で、お姉さんのように見えた。だから一緒にぎゃーぎゃーやる仲間にするのが気恥ずかしかったんだと思う。
ゲームでドットでしか映らないキャラクターを、このファミコンのジャケットのイラスト一枚でそこまで思わせることができるひとが当時どれだけいただろう。そしてドラゴンボールのキャラクターにこれだけのめりこませてくれたからこんな風に感じたんだと思う。それもまたすごいこと。
ドラゴンボールは、単なる漫画じゃなかった。別に1話からリアルタイムで見てたわけじゃない。ジャンプで連載してるってことを知ったのはずっとあとだし、初めてみたときは確かアニメだったと思う。どこから見始めたのかわすれたけど、クラスのみんなで桃白々つええぇって話をしてたからそのころにはきっと見てたんだろうな。水曜日にアニメの放送があって、翌日にはアニメの感想でもちきりだった。みんなでかめはめ波を打つ練習を教室でもしたし、家でもドラクエを進めるのを見ながら後ろで「かぁぁぁめぇぇはぁぁぁ」という声をみんなでそろえていた。
途中で筋斗雲にのらなくても空を飛べるやつが出てきたときはそりゃもう大騒ぎだった。舞空術。このときは漢字の意味がそこまでわからないけど、空という文字はわかった。ぶくうじゅつと読んで、空をとぶ必殺技。空を飛ぶにはドラえもんはタケコプターが必要だし、悟空だって筋斗雲が必要だった。それなのに、自分の力だけで飛べるやつが出てきた。なんとかしてできないもんか。みんな真似をした。ドラクエをやるためのテレビがあるうちの部屋は、我が家でいう寝室だった。押し入れがあって布団がしまってあった。押し入れから布団を出して、下にひいて。押し入れから気合をいれて、ぶくうじゅつ!!といいながら飛び上がっては布団に落ちていた。それをみんなでゲラゲラ笑いながら、でもちょっとおちこんだりもしていた。どうやったら飛べるんだろうなってみんなで言い合いながら、手作りのマントを作ってくるやつとかいろんなやつがいた。部屋でバタバタしすぎて親におこられてファミコンやること自体が一時禁止になったときは、「うっわやっべ」ってみんなで教室で会議してから親にあやまりにいった。さすがに一日一時間までのルールをしぶしぶ飲むことで親に納得してもらった。なんで上から目線で渋々受け入れる側だったのかは今でもよくわからない。
親がどう思っていたか聞いたことはないけど、ドラゴンボールのアニメは親と一緒に見ていたので、小学生のこっちがどハマりしてることはきっと理解してもらってただろうし、かめはめ波や舞空術の練習をしていたことも、そういうもんだぐらいに理解はしてくれてたと思う。
ある日、たしかドラクエはもう全部クリアしおわっていたころ。親と一緒にドラゴンボールを見ていたら。天下一武道会のあとだったか。クリリンの大きな声がきこえた。悟空がかけよったら、クリリンが死んでいた。
自分にとって、おそらく、「知っている人」の死は、クリリンがはじめてだったのだと思う。あまりのショックで、大泣きして、翌日一日学校を休んだ。一晩中泣いていたらしい。学校に戻ればドラゴンボールの話題でもちきりだったけど、もう参加もしたくなかった。とにかく耳からシャットダウン。翌週から怖くて俺はドラゴンボールのアニメを見るのもやめた。親は見なくていいの?って何度もきいてきたけど、見たくない、と答えていたらしい(親は普通に見たかったらしい、ごめんね)。
アニメのキャラクターの死が、自分にとっての初めての死だった。逆にいうと、それぐらいクリリンは自分の中で生きていた。
数年後、住んでいたマンションで主催してたバザーで週刊少年ジャンプを古本として出している人がいて、そこにドラゴンボールが漫画でのってるよって話を一個上の近所のおにいちゃんから教わる。ひさしぶりに見るドラゴンボールは悟空が大きくなっていて、なんかハゲのヒゲオヤジが口からかめはめ波みたいなものを出して悟空と戦っていた。俺の見てない間になにが!?と一気に取り戻して、そこからはまたリアルタイムで見ていってドラゴンボールをリアルタイムで見るように戻っていった。最終回をちゃんとジャンプ連載でリアルタイムで見送れてよかった。
親や学校の先生からたくさんのことを教わってもらってきたけれど、ドラゴンボールにもいろんなことを教わった気がする。ドラゴンボールは漫画やアニメというより、自分にとっては冒険だった。たぶんあの世界に一緒にはいって、一緒に冒険をしていたのだと思う。
一番好きなキャラクターは亀仙人とじっちゃんだった。大人ってこういうことか、っていう教わった気がする。
ドラゴンボールのなかの世界の神様に、孫悟空の恩師でもある、ひとりのじいさんが、やさしくあなたのおかげだ、と伝えるシーン。ここがとても好きで、こういう大人になりたいと思ったもんだった。
仙豆がのみたかった。超神水がのみたかった。如意棒がほしかった。筋斗雲にのりたかった。舞空術はまだできてない。界王様にならって界王拳も元気玉もできるようになりたかった。人から元気をあつめたらまずいかぁと元気玉はちょっと控えた。ドラゴンボールの7つの中ではもちろん四星球が一番すきだった。そのへんの空き地におちてないか友達とさがしたこともあった。満月の夜に空をみあげては、悟空がいまごろ大猿になってるかな、って思っていた。
やりたかったこと、なんもできてないまま今になってる気がする。
でも、ちょっとだけ、やりたかったことだったかはおいといて、友達は大事にするもんだってことと、がんばれば強くなるんだってことは教わった気がする。
ドラゴンボールをまた読めば。クロノトリガーのスイッチを入れれば。アラレちゃんを読めば。ドラクエの音楽がきこえてくれば。ぶわっと鳥山先生の世界がよみがえってくる。
鳥山明がいる世界に生まれてきてよかったな。鳥山明がいなかったら、もうちょっとおもしろくなかっただろうなと思う。
占いババの声を引用したツイートがとてもすばらしいなと思ったので、自分も同じ言葉をお借りさせてください。先生、達者で死んでください。いずれあの世でお会いしましょう。ごきげんよう。
たくさんの冒険をありがとうございました。