The Birthdayの全アルバムを聞く企画を始めようと思います。全アルバムの感想文を書いていけたらとは思っています。企画倒れになる可能性はありますが。のんびり書いていきたいです。その前の前置きを。
たぶんこの前置きが全部で一番長い文章になるんじゃないでしょうか。ミッシェルとの出会いと、ミッシェルが解散してからの話を先にしようと思います。
話は自分がどういう音楽を聴いてきたか、ってとこにさかのぼります。小学生のころですかね。
CDバブルがやってきて、月曜9時のフジテレビの主題歌が200万枚を軒並み記録していくのが小学3年生ぐらいだったか。わかりやすくヒットチャートの盛り上がりで音楽に出会った。バラエティはひょうきん族の力が落ちてきて、とんねるずが天下を取り出し、ダウンタウンがもうすぐというときだった。初めて親のお金で買ってもらったCDはとんねるずの「ガラガラヘビがやってくる」。自分のお金で買ったのはCHAGE&ASKAの「YAH YAH YAH」。とんねるずとチャゲアスが開けてくれた自分の音楽の世界のドア。その先にはMr.Childrenというバンドに出会うことになり、今にいたるまで一番好きなバンドでありつづけるんだけど。Mr.Childrenを聞くことは、当時はヒットチャートを追いかけることと結果的に同義だった。俺はJ-POPの売れてるものをとにかく聞きあさっていた。月9主題歌。小室系。100万枚超えた曲。全部全部このもらさずチェックしていた。同世代の当時の動きとしては、すごく自然なものだったと思う。
Mr.Childrenにはとにかくのめりこんでいったので、初めてライブに行ったのもMr.Childrenだった。その次はglobeだった。中学の終わりぐらいだったと記憶している。
俺は中高一貫に通っていたので、中学から高校にいたるまでほとんど同じメンバーで学生生活を送っていた。そうすると、一緒に同じものを聞いていた人たちにも個性が出てくるもので。ヒットチャートを聞き続けるやつもいれば、いろんな音楽を聴き始める人もでてきていた。
友人からのすすめでミュージックスクエアというNHKのラジオ番組を教えてもらった。当時はミュージックスクエアがミスチルをよくプッシュしていたのもあってそれも聞くようになった。スクエアで流れる音楽は、耳なじみのいいものはヒットチャートにいなくてもチェックするようになっていった。最初に気になったのは山崎まさよしのOne more time, One more chanceだったような気がする。当時Coccoとかも出てきてたけど、当時は怖ぇ、としか思えなくて聞けなかった。
山崎まさよしが気になってたからなのか、同じ学校の一緒によくカラオケにいっていた友人にあるライブにさそわれた。よくわからないけど、好奇心がうずいて「いくいくー」と答えた。その友人は後々にレジーとしてライター的な活動でも有名になっていくのだけど、それはまた別の話だ。
そのライブのイベント名はSWEET LOVE SHOWER。面子はこうだった。
Cocco、サニーデイサービス、フラワーカンパニーズ、ホフディラン、(シークレットでカジヒデキ)、thee michelle gun elephant、山崎まさよし。今考えるとすごい面子。当時は山崎まさよしは知ってて、あとはなんとなく名前を知っている程度で、レジーにサニーデイサービスの「愛と笑いの夜」を予習で借りたぐらいであとは何も知らずに当日に臨んだ。
大トリがthee michelle gun elephantだった。俺はこのバンドをこのとき読み方すら知らなかった。エレファントカシマシと区別もついていなかった。隣の席のレジーは「世界の終わりききたいなぁ」って言ってたけど、全然しらないまま「そうだねぇ」って答えたりしていた。
全員スーツをまとったガラのわるい四人組がでてきて、ライブは始まり、あっという間に終わった。最後の曲は、シスコ!って叫ぶだけの曲だった。
口をあんぐりしながら「ああ、すげぇ。」しか出なかった。脳内は!%?#%#GE#(”*‘””$()#みたいなことになっていた。
これが俺のロックンロールとの出会いだった。音楽で頭を殴られたような感覚になったのは、この日のミッシェルのライブと、1998年のAIR JAMでのHi-STANDARD、あとは2001年のMr.ChildrenのROCK IN JAPANでのライブぐらいじゃないかな。
それから必死で追いかけた。まずこのバンドはミッシェルガンエレファントと読むらしいということ。最後にやっていた曲はCISCOというちゃんとした一曲だったということ。サブタイトルは夢のサンフランシスコという、シスコと叫んでる回数分全部数えた文字数より多そうなサブタイトルだということ。聞いたことないのにその日中ギターのフレーズがずっと頭をぐるぐるしていた曲は「カルチャー」という曲だったということ。その日覚えていつのまにか一緒に叫んでいたゴーバックキャンディハウス!って曲はそのまんま「キャンディハウス」という曲だったこと。
もうすぐ音源が出るらしいということ。新曲をみんなで聞いた。CDウォークマンを誰かがもってきて、誰かがCDを買ってきて、イヤホン片耳ずつでみんなで聞きまわした。その曲の名前はゲットアップルーシー。聞いたことないドラムのイントロに暴力的なギター。ブオンブオンなるベース音に、チンピラのような声。ウワァ。
それが俺とミッシェルとの出会い。1997年。
そこからミッシェルはフジロック'98や、日本初のアリーナスタンディングライブ(今の日本のアリーナクラスでスタンディングライブができるのはミッシェルが道を切り開いてくれたからだよというのはおじさんのうんちく)を経てどんどん大きくなっていくのだけど。ロックに詳しくない俺にでもわかった。この人たちが今日本のロックを塗り替えている。こんなにガラの悪そうなひとたちがやってきて、時代とか全く関係ない、自分たちがかっこいいと思う音だけを、自分たちのスタイルででっかい音で鳴らす、それが一番かっこいいじゃねえか、って突きつけてくれてるようだった。日本のロックはミッシェル以前以後で大きくきっと違うのだろう(おそらくブルーハーツ以前以後とか、たくさんの以前以後はあります)。俺はミッシェル以後の世界のロックしか知らないけれど。そういう評価はあとからわかるもんだし、そんな俯瞰で見る目線当時はもちあわせてなかった。ただただ目の前で起こることにずっと興奮していた。夢中で興奮させてもらえるということ自体が貴重だったなと今なら思う。
時は過ぎて、2003年。ミッシェルガンエレファントは解散した。
解散前に、ミッシェルは一度活動休止を挟んでいる。その間にはじまったROSSOというバンドもちゃんと聞いていた。ROSSOが始まる前に出たアルバム「ロデオ・タンデム・ビート・スペクター」というアルバムはとても重苦しかった。最後の曲「赤毛のケリー」が重苦しい中の美しさを持っていたのでなんとか聞けていたけど、息が詰まる思いがしてあまり何度も聞けなかった。そりゃ活動休止するよなと思ったし、もう一度初期衝動がやりたくてROSSOが始まったんだろうなというのもこのころになってくると少しわかるようになってきた。だって「シャロン」がそういう曲なんだもん。
ミッシェルは活動再開したけれど、「サブリナヘブン」「サブリナノーヘブン」という二枚のレコードを出して、わりとすぐ解散してしまった。でもアルバムを聞いた時点で、あーこれがラストかもしれないなって予感はしていた。ミッシェルといえば黒や夜のイメージだったけど、アルバムのジャケットは白背景で鳥がとんでいた。アルバムの最後の曲のタイトルは「NIGHT IS OVER」だった。アルバムの内容も、今なら音楽的に進化してってたんだなって思うけど、「これミッシェルなのかなぁ」って思ったのが正直なとこだった。特に「サブリナヘブン」のほうは生前葬のようなアルバムだなと思った。ノーヘブンのほうはシンプルでかっけぇと思ったので、やっぱ続くのかしらとも思ったけど。
解散した理由は四人にしかわからないけれど、きっと先を見いだせなかったのだと思う。熱狂をきわめていく方向にバンドはずっと進んでいたので、エンジンの速度を上げ続けることには限界がある。ギアブルーズというアルバムより後はエンジンの上げ方に迷っていたようにみえた。そこで一度活動休止をはさんだのは正解だったと思う。活動休止をはさんで、じゃあやれることはなんだ?ってなったときに、バンドの規模と、今コンポーザーがやりたい音楽と、それを実現するバンドという車がもうあわなくなってたんだろうなと俺は思った。もしかしたら活動再開してからの活動すべてが、終わりに向けて動いていたのかな、と今なら思うほど。
2003年までのたくさんのライブを見てきて、最後の解散ライブも見届けた。解散ライブは、あまりいいライブとは思わなかった。死が決まっているバンドのライブってこういうものなんだな、と納得もした。もうガソリン切れのライブだった。Burning Motors Go Last Heavenとは今思うとよくできたタイトルだったなと。燃えつくした姿も見せてくれたんだと思う。
解散の翌年ぐらいだったか、ROSSOがわりとすぐ再始動する。再始動したROSSOの最初のライブに友人が声かけてくれて運よく行くことができた。リキッドルームでのワンマンライブで、当日発表とかだったような気がする。いつものドリンクチケットで、その日だけチンザノロッソが追加されていたのが今思うとチバの粋な計らいだったのかなと思う。ROSSOは四人になってて、ドラムとギターは元フリクションの人になっていた。1000のバイオリンという新しい曲を携えていた。後期ミッシェルの重めのサウンドと、ロマンチックなメロディが同居する名曲だった。
ただROSSOはそのあとどんどん内容が重苦しい方向に向かってった。たしか4曲入りぐらいのミニアルバムだしてなかったかな?10分超えの曲が2曲ぐらいあったような。演奏での絡み合いみたいなことに重きをおきたかったのかわからなくて、俺はそこで一回距離をおいてしまった。
いつのまにかROSSOは終わってしまったらしい。すぐ次のニュースがとびこんできた。The Birthdayという無名のバンドがライブをしたけど、そのバンドのボーカルがチバだと。しかもドラムはミッシェルのキュウだと。ギターはROSSOの人が続いてるけどベースはよくわからん若い子だと(あとからきいたらてるる…というバンドの子だった。てるる見たことあったので意外だった)。
きっと、ROSSO後期でやりたかったことをちゃんと叶えられる母体にしたんだろうなとおぼろげに思いながら、そこまで興味を持たずにそのニュースを見ていた。音源も最初のシングル「stupid」を聞いた。2006年8月。ベースのイントロかっこいいなと思った。わりとシンプルなロックンロールだけど、シャロンのようなものだと思い、次だ次、アルバムきいたりライブみたりしないとわからんと待っていた。
で、ライブを見る機会はわりとすぐ訪れた。2006年9月。
運命なのか?またThe Birthdayを初めて見る体験は日比谷野外音楽堂で行われたSWEET LOVE SHOWERだった。まぁこのときの一番の目当てはSUPER BUTTER DOGだったのだけど。バースデイどんなもんじゃい!って気持ちで見てみた。
これが当時の自分に全然あわなかった。あれ?これは何を目指してるんだろう?チバは何がやりたいんだろう?ROSSOで疲れてしまったのか?なんてことを思ったほど。当時の自分の感想をmixiからひっぱってきた。
■The Birthday:よーわからんかった。「KIKI The Pixy」はかっこいいと思ったけど。ミッシェル路線とROSSO路線でやってないところを探そうとして、あんまり何もないとこを見つけちゃったかなというイメージ。取り立てて感想はなかったなぁ。LOVERS/シャチ/Stupid/KIKI The Pixy/FUGITIVE
これしか書いてなかった。ほんとになんも思わなかったんだと思う。
そしてすぐそのあと、2006年10月。一枚目のアルバム「Rollers Romantics」がやっと出た。アルバム聞いたら印象変わるかなと思ってきいてみたけど、自分の中でThe Birthdayってこういうことか!っていう落としどころが見つからずにおわってしまった。
そこからThe Birthdayとはずっと距離をおいたまま。アルバムが出たらふんわりきいたりするけど、聞きこむってわけではなく、ライブ見るときの定番曲チェックしようかなぐらいの距離感。ライブを見るのもフェスや対バンのみ。ワンマンライブは一度も行っていない。
アベフトシが亡くなった年のフジロックのライブは久しぶりにゆっくりみたけど、同じ年にライジングサンで演奏したほうは見なかった。KAMINARI TODAYをアベにささげていたということは後で知ったけど。
The Birthdayのライブで一回だけシビれるほどかっこいいと思ったライブがあった。Hi-STANDARD主催のAIR JAM 2018。AIR JAMにチバがいる未来は想像したことがなかったんだけど、このときのライブが「俺なんでこんなかっこいいバンドみてこなかったんだ!?!?」って思わされるぐらいかっこよかった。チバの見た目はずいぶん見てない間におじいちゃんになっていたけど、声のしわがれ方も、暮れてきた夜空の下に鳴らす音楽としても、こんなにカッコよかったのかバースデイ?とうならされた。The Birthdayは2018年時点で活動13年。ミッシェルよりも活動期間が長い。それだけ積み重ねてバンドとして生きてきてたんだよね。その積み重ねと、そのときの自分がたまたまピントがあったんだと思う。だからこのライブのあとは「NOMAD」というアルバムをやたらたくさん聞いた。これは、ほかのアルバムもどこかでゆっくりと聞きなおしたいな、ちゃんと聞いたらワンマンいってみよう、と思ったものだった。
そうこうしてるうちにコロナ渦がきた。ライブ行こうとか、音楽きこうとか、なんかそれどころじゃなくなってしまった。バースデイのことはすっかり忘れていた。唯一、スラムダンクの主題歌になったときは、ええっとびっくりした。そんなに合わないだろうとスラムダンクファン目線から不安になっていた。そしてスラムダンクのオープニングとThe BirthdayのLOVE ROCKETSのマッチ具合に鳥肌がたった。不安になってたことを恥じたい。今でもあの映画で一番好きなシーンはオープニングだと答えます。井上雄彦の絵に命を吹き込んでいくかのようなあのオープニング。5人のキャラクターがそろったときの「ワルモノ見参」感を、バースデイの音楽とチバのがなり声が増幅して見せてくれる。ミッシェルを初めてみたときの自分の感想は繰り返しになるけど"全員スーツをまとったガラのわるい四人組がでてきて、ライブは始まり、あっという間に終わった"だった。これをワルモノ見参の部分に合わせるなんて最高の演出すぎるじゃねえか、とスラムダンクファンとしても興奮しまくった。でもライブいってみよう、にはならなかった。EPでたりしたけど聞きこんだりもしなかった。
そうして2018年に見たライブと、スラムダンクでのチバのがなり声を聴いて興奮したのが俺にとってのバースデイの最後になった。チバは死んでしまった。バースデイの活動は終わった。
チバが死ぬとはかけらも思わなかった。亡くなったときいて、しばらくぼうっとしてしまった。
2023年はたくさんの訃報があったけれど、自分にとってはHi-STANDARDのツネが亡くなり、チバが亡くなった年になる。
ツネについては、もちろん残念だったけど、自分がハイスタと出会ってから、できうる限りで活動を追ってきたという自信がある。俺が見なくて誰が見る?という自負すらあるぐらい。だから、悲しさはもちろんあるけれど、追悼ライブももちろん見たし、残された二人が先に進もうとしている姿も見たうえで、次のハイスタにわくわくもしている。けじめをつけられるぐらい俺はハイスタを好きでい続けた。
チバについては真逆で。もっと、もっと、聞くことができたはず。途中何度も機会があった。こんなのはタイミングだとも思う。そのときの自分にあうものを聞いてきてるし、その選択は間違っていないと思う。でも、もっと聞いていたなら、という自分への後悔が、ツネちゃんをちゃんと見届けてきたからこそ、ぬぐえない。
この長文を書き散らかす場所をはじめたときは、いろいろもやもやしてることを書きなぐれる場所があるのはいいなと思っただけなんだけど。そのうちのもやもやの一つとして、チバへの後悔が自分の中で大きくて。あぁ、ここ使いながら自分の中で整理していくのもいいのかもしれない、と思うようになりました。
改めて、全然聞いてきていないThe Birthdayを全アルバムちゃんときいてみる、それを自分の記録として残していくのは、だれのためでもなく、自分のために意味があるんじゃないのかな、と思った次第です。
ということで、The Birthdayの全アルバムの感想文を書いていくことを連載にしていこうと思います。これはチバへの追悼というよりも、俺の後悔を少しでも埋めていくためのものです。
ベスト盤やB面ベストを除くと、ミニアルバム含めて全12枚あるのかな。聞きこんで感想を書くようにしていきたいので、それこそ月1ペースぐらいで書いていけたらなと思ってます。今年いっぱいぐらいで完成できるといいね。
この文章は自分のことなので異様に長いですけど、音楽の感想文になると途端に数行になったりすると思うので、別に大したものにならないと思います。そこは期待せずに。
では、そのうちゆっくりはじめていきます。よろしくおねがいします。