どうしようもない気持ちが、波のようにやってくる。シャワーを浴びているとき、ふいに、言いようのない不安のような、全ての諦めのような気持ちになる。せっかくシャワーを浴びて気持ちがいいはずなのに、狭い浴室で息苦しくなる。
2月は、仕方がないのかもしれない。わたしたちは、どうにかこの1年を生き延びてきた。なくなることのない感情と、折り合いもつけず、どうすることもなく、ただ、その気持ちを持ったまま。安らぐとか、和らぐとかではない。そのまま、持ち続けている。それでも、たまに、全部を放り投げたくなる。もしくは、誰かに話して、なんでもないことのように、聞いてほしくなる。オットとは、あまりそれができないから。それは特性なのか、わからない。いなくなった人の話、それを悲観的になることもなく、話したいという欲が自分の中にあるのかもしれない。特別なことじゃないよ、と思いたいのはわたし。でも、ありふれていること、自分が特別かわいそうだとは思わない。奇妙だっただろうか、両親より全く気丈に振る舞う姉は。心の中でずっと、これは望んだことじゃなかったよね、もったいないね、と話しかけていた。その場には彼女がいる気がしなかった。
なんの偶然か、家の契約日は彼女がいなくなった日に決まった。元気でやっていればそれでいいのに、とただ思い続けていた日々が終わって、わたしは、何もできなかったなぁ、と、遠くからわたしのことを責めている。でも、なにかできるだなんて、驕りだとも、同時に思う。他者に、なにかをしてあげられるだなんて、どこまでも思い込みだ。わたしが、したいからやるのだ。その罪悪感を、絶対に忘れないし無くしたくない。わたしはわたしのためにしか生きられない。そのことと、自分以外の存在を大切に思うことは、両立しうる。
言葉に当てはめることも、なにもかも、すべて、無意味だ。それでも、息をするために、文字を吐く。猫が、寝床で寝返りを打つ。それを見ているのが、ただ幸せ。