歴史の教科書で100年単位の年表を眺めて「へぇ〜、進化していったんだなあ」なんてのんびり言っていれらないくらい、今、この瞬間を生きている人が気づくスピードで変わりゆく現代の世の中。「多様性」「平等」「コンプライアンス」などの言葉が1日1回は見聞きするようになった。
昨日、父と話していて気づいたことがあった。私の父といえばコテコテの田舎者で、亭主関白では無いものの思考の底には常に昭和の考えがある人だ。さらに田舎特有の噂好きで、昨日もご近所さんや親戚についてアレコレ私に話していた。
一際話題に出されるのが、中年と呼ばれる年齢で独身の人についてである。話題に出す、というより、話のオチが「独身」である。「極めつけは、独身!」みたいな感じである。『…、それであいつは独身だろ?どうすんだこれから、あの家はきっと大変なことになる』なんて、予言までして占い師か。と思うが、なにせ昭和でできた父なので、『んーー』という聞いてるような聞いていないような返事をする。
私も、そろそろ結婚適齢期と言われそうな年齢になってきた。結婚式を上げた同い年の友人もいる。が、私は仕事も住む場所もコロコロ変わる人間なので、恋愛はここ何年か全くご無沙汰である。
焦りを感じるかと聞かれても、よく分からない。「結婚」という言葉がまだ遠すぎるように感じている。そんな私だが、結婚願望は昔からあった。子どもが欲しい、賑やかな家庭を築きたい、そんなよくある理由の中に、「父を喜ばせたい」というものが存在する。昨日気づいたことはまさにこれである。私は、父のために結婚したいと思っている。父を安心させたい、孫とふれあい喜ぶ父の姿を見たい。それは正しく、田舎者でも噂好きでも、それでも父のことが好きだからだろう。
だけど、「結婚ってもしかして、誰かのためにするものじゃないかもしれない」と思い始めてきた。実際に結婚するのは父ではなく、私なのだ。私は、父の気持ちを除いたとしても本当に結婚したいと思っているのだろうか。
時代はもう昭和ではない。ましてや平成でもなく、令和なのだ。どんな生き方があってもおかしくない時代になっている。「結婚するのが当たり前」と思っている父と、「父の言う通りに結婚する娘」というのは、なかなか時代遅れかもしれない。