「〇〇ちゃんは卑屈すぎる」
アイドルについて語っているときに友人に言われた一言である。この言葉がずーっと引っかかっていたが今になって思うとかなり核心をついていた。
ずいぶん長い間アイドルのファンであった。
歌って踊って個々にキャラクターがはっきりしている「アイドル」が好きだった幼少時代。そのアイドルのブームが終わりかけると同時に、私の心も少し離れ、その後また違うアイドルを好きになるのだがそこから内面の変化が起きる。
応援しているアイドルに対して自分はただの群衆であるという自覚が芽生えたのである。
なぜ友人が冒頭のような一言を発したのか。
「アイドルってすごいよね〜、なんかこんな自分が応援してすみませんって思う。普通、握手なんて嫌だと思うのに誰でも笑顔で迎えてくれてさ…」
というような私の話がきっかけだった。
今思うと、なんだか危険思想の始まりのような臭いがぷんぷんする発言であるが、当時は「卑屈すぎる」に対して「ハァ?」と反発心を抱いていた。その友人は正しかった。
友人はこんなことも言った。
「そんな気持ちで応援するなんて、アイドルに失礼だよ。もっと自信を持って応援しなよ」
その通りである。しかし私は言葉の本質を探ろうともせず、やはり「ハァ?」としか思わなかった。アイドルは神聖な存在であり下等な一般人はこうあるべきというような確固たる思想が出来上がる直前だった。友人の発言を無視して、その後、何年間もその初期の気持ちを拗らせて拗らせていくのであった。
なんの疑いもなく群衆(モブ)として生きていたが、あるアイドルのファンになったことをきっかけに応援する自分の内面について考えるようになった。
そのアイドルが、アイドルであり一人の人間であると考えたとき、どんな応援が最適だろうか。自分のエゴを押し付けていないだろうか。常にそんなことを考えるようになった。その最中で、アイドルが心地よく自由な精神で何にも侵されず生きていってほしいという気持ちで応援しよう、という考え方に落ち着きかけた。しかし、ヘッセのアウグストゥスのような展開を考えると、それもエゴなのか、とか……考え出すときりがなかった。
あるとき、その思考の先端に到達した。
アイドルと私の人生は全く違うものであり、私が何を願おうと、アイドルは自分のしたいようにする。何も変えられない。アイドルの人生に起きることを私は防ぐことはできないのだ。
こんなこと当たり前かもしれないがこの考え方が「〇〇ちゃんは卑屈すぎる」のときからすっぽり抜け落ちていたのだ。卑屈であるのに(だからこそ?)存在意義をアイドルに求める。ただの群衆でも何か力になれることがあるはず。それが自分の唯一の支えだった。自分という存在が取るに足らないと思いながらも、どうにか役に立てることがないかと考え尽くした結果、本質的には何にもならないことを知ってしまったのである。
それを理解したとき、本当の涙が出た。ものすごく悲しかった。自分の中身は何にもない。空っぽだったことに気がついたからだ。
このお話に出てくる河童のように、アイドルのファンである自分は死んでいった。
ウルトラスマートな推し活をしたいと考え尽くしたら推し活ができなくなったというオチである。こんなふうに考えさせてくれるきっかけとなったアイドルには感謝しかない。個人的な考えだが、いいアイドルとは、『アイドルのファン』を辞めさせてくれるアイドルではないかと思う。
さて、自分の人生について考えよう!となったものの、自分でどうにかできるのが自分の人生だというのにどうしてこんなにどうにもならないのかと途方に暮れている。
アイドルの自由を願うように自分に対して願ってあげられたらいいと思うのだけど、それがきっと1番難しい。
きっかけとなったアイドルとは複数人のことを指す。