表現したいことを軸にして絵を描くので、いわゆる絵柄とか画風のようなものが若干フワついている。キュートな絵柄が必要であればそう寄せるし、力強さが必要であればそう寄せる。主観的にだけど、こういうスタンスは統一感がないと思っている。
こだわりがないわけじゃないが、私の好み自体が節操がない。フリフリのロリータも好きだし、メカメカのロボットも好きだし、モフモフのケモノも好きだし、ムキムキの筋肉も好き。
描きたいものが題材となるキャラクター・コンテキストという個に依存するため、世界観という枠組みを重要視していないという自覚がある。そしてキャラクターが「昔、雑多に書いた話の登場人物を寄せ集めた」みたいなプロセスで構成されている。スマブラみたいなものだ。大乱闘。
とはいえ現代が舞台で、胎銀病というSFな枠組みとか、人体を描画するアプローチ(デッサン)が共通するので、完全に統一感がないってわけじゃない。自分の消しきれないアク(良くも悪くも)みたいなものは感じる。
つまるところ「自分の絵は統一感がねえなー」というざっくりした見解があり、それに対して「そういう節操の無さが強みになる」ことと「表現者としてのブランディングが弱いというデメリット」とに不定期的に悩まされている。そして結局は同じスタンスに戻ってきている。
ここまでが前フリで、ここからが本題でありオチなんだけど、
自分はこの色が好きすぎるだろって話。
初音ミクの髪の色みたいな、薄荷色とか薄縹とかああいう色に弱い。
濃淡や他の色との組み合わせなど工夫をするよう毎回心がけているが、それにしたってだ。どんなに絵やキャラクターのテイストが違っても、配色の傾向がこの有り様なのだ。
私の創作には3.5病棟という組織があり、病棟の名の通り組織としてのユニフォームが患者衣なので、この色が頻出する。……いや、時たまに描く全然関係ないジャンルのファンアート類でもこの色を使いがちだったりもする。黄色とかを使いたいときに相性がよくて、つい。
そう、表現したいものを考えたときに選択肢として挙がり、そしてその存在感があまりに強い。別にこの色が使いたくてって動機がいつもあるわけではない。画面全体の色の調和を考えたらとか、キャラクターを表現する際の演出の一環として、結果的に採用したという、いわば消去法が大半だとすら思っている。主観的には。
私の偏見で言うと、この色は前述の通り医療用品によく見られる色なので、清潔感があると同時に独特の薬品っぽい香りを想起させるのでは、と考察している。ハッカ油のパッケージも近い色かな。ハッカの香りが苦手という人もいるだろう。自然界では温泉、火山の火口、鉱石、青銅で見られるだろうか。温泉もあの硫化物のにおいが苦手って人がいたりする。あとネガティブ系でぱっと思いつくのだと青カビとか? 身近で無害な青カビであるブルーチーズも食品としてかなりクセが強く好き嫌いが分かれる気がする。ググってたら花緑青も出てきたな。ヒ素系の毒物って印象でぼんやり覚えている。
表現に採用する直接の理由ではないのだが、この色の自分のイメージはこんなだ。改めて書き散らしてみると、あれだ、淡くて綺麗な色(光がよく通る)をした、クセの強い香りとか人体に対して危険な物質とか、そういうものが好きなんだな。なんつー趣味だ。
色としては赤や黄色を使うときに相性がいい。生命感の対比みたいな文脈がある。命と毒、みたいな。あと単純にトライアド配色の並びに近くなっているから、色の相性が悪い系の事故を回避している。でも、色相環の三角形としては少し偏った形になるので、完全な安定感(退屈さ)からはズレたちょっと我の強い(個性的な)配色になる。コンプレックスハーモニーと呼ばれる色の組み合わせ手法に該当するのかな? そうでなくても類似の法則だと思われる。
あと、無彩色(特に黒)と組み合わせると有機/無機の意味合いみたいなものを感じられる気がする。私は黒といえば炭素や漆を連想するため。黒髪のキャラも結構いるから、それによって使用頻度が高くなる。白が200色あるように、黒にも個性があるので、細かい色のニュアンスについて注意深く調整が必要とも思う。
常にそう考えながら色を選んでいるわけじゃないが、完成した後に作者自身の視点から色とモチーフを解釈し、言葉にするならこう、って感じ。
*この段落は長いので、飛ばしてもいい
きれいであることや、大衆的であることを意識的に心がけている反面、表現する事柄がアクや毒を有していることを描写する──少なくとも私が納得のいく手段で──となった時に、この色を使う・組み合わせることを選択してきた。というのが一つ。鑑賞者にとってこの色がどんな印象を持っているかは分からない。
きれいなものや親しみやすいものは好きだし、そうするための取り組み・工夫はモノづくりの観点の一つだろうと思う。自分だけがこの良さをわかればいいんだ、なんてひとりよがりなモノづくりをしたいわけではない。かといって、きれいであることや大衆性だけに阿ったものをつくり、評価を得る虚飾を無邪気に受け入れられるほど素直な性格をしていない。自分がどういう人間で、いかに面倒な創作者であるかは認めた上で、ままならない状況と自分自身に向き合い、苦しむ覚悟をして、誠意を以てモノづくりに取り組む他にない。
この色はいろんな商品や作品に使われていて、多くの人にポジティブな印象の色彩として受け入れられている。これはある程度、確信をもっていい程度には事実だと思う。私も良い色だと思い、こういった色の文房具やらを選んで買っている。一方で、この色から想起されるネガティブな印象について心当たりがあるし、それらを要因にしてこの色を苦手に思う人がいるだろうという想定もある。少なくとも、やはり万人に好かれるものはない、という覚悟は必要だ。
そのうえで、私はこの色にまつわるネガティブな印象も含めて、表現に取り入れたいと考えている。銃をカッコイイと思う気持ちと、その銃によって命が失われた悲しい出来事たちを嘆くこと。誠実であろうとするなら、その両方に終わりなく向き合わなければならないと思う。なにせきっと正解がない命題だ。色にまでそんな事を考えているのは大袈裟だなと自分でも思わなくはないが。
一方で、他者がこの色を使っているからといって、それが(私と同じように)アクや毒を意図したものであると無考慮で決めつけることもまた不誠実なので、そのあたりの線引は健全に行われるべきだ。当たり前だけど。(更に野暮を言えば、毒にはいろんな色のバリエーションがあるし。あるいは可視光線を反射するとも限らない。なんだったら世の中の大抵のものは毒になりうる。毒という要素については他のアプローチもあることに留意したい。「毒というモチーフが好きだからこの色を使う」と「この色を使った時に生じうる毒モチーフという解釈について許容する」は違う。必要条件と十分条件を取り違えてはならない)
そして個人的に、作品づくりの中で生じた消去法に対して悲観的ではないというのも一つ。言い換えるならば必然であり、ある種のめぐり合わせであり、偶然ゆえの面白さがある。また、その必然の由来を紐解き、今後の創作に活かすこともまた醍醐味かなと。
あらかじめすべてを論理立て、計算し、狙った表現を的確な技術で出力することは表現者として有効な能力の一つであるし、私もそうなりたいと思いながら精進しているつもりだ。狙った通りに選択が機能することを面白いと感じ、達成感を得るというのもモノづくりの要素である。ただ、そういった論理を適切に、説得力を以て、納得した状態で使えるようになるためには、偶然にたどり着くための(不毛かもしれない地道な)挑戦・試行錯誤を続けなければならない。手に入れた偶然をきちんと分析する必要がある。意識高めに言うならPDCAサイクルってやつか。
私は少なくとも今後しばらくはこの色を好きだろうし、使い続けると思う。
異なるテーマ・テイストの絵の中で、それでも共通して出てくるこの色。どうしてこの色が好きなのか、この色が表現の中でどんな役割を果たしているのかをこういう形で文章にできたのはよかったな。書きながら、一つの視点を得られた。これは表現していくうえでの反省っていうよりは、自分自身の感性のヒアリング・カウンセリングみたいなものだけど。強いて言うなら、思考停止でこの色を使ってしまわないようにしたい、という自戒がある。
もうここまできたら、この色を使ったイラスト集をつくったりしてみたら楽しいかもしれない。ぐだぐだ理屈をつけなくても、自分にとってこの色は良いものに感じる、積極的に使いたいと感じているというだけで十分だとも思うし。
ただ、この色をなんと呼べばいいのか、いまだに分かんないんだよな。