夢破れた相手に何を願う?

ぶらーぽ
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公開:2025/1/31

初音ミクをはじめとするクリプトン系ボーカロイドと音楽を志す若者が、想いの具現化である「セカイ」で通じ合うことができる――そんな世界観を有した大ヒットスマホゲーム『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat.初音ミク』。それをテーマにした映画『劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク』が公開中である。

プロセカはなんかちょっとやってた気がするけど、アカウントデータ消えたりそもそも音ゲ下手だったりスマホの容量が足りなかったりで全然触れていなかった。

そんなかろうじて主要なプロセカオリジナルキャラクターに関する申し訳程度知識を持つ俺は、ボカロの変なオタクとして見れるからには見に行くしかないとはせ参じに行った感じである。

追記:ネタバレについて

普通に気付かなかった。スマソ……まぁふせったーが有ならばこれも許されるだろうと信じて……このタイトルは大丈夫よね?

本質的な大筋に関してのネタバレになっているのでご注意ください。

あと賛否両論的な構造で、否に相当する部分が長めです。

大体プリキュアでは……?

まず、今までの映画の中でもかなり異質な映画体験だった。

この作品は応援上映がされる前提で構築されており、通常上映と共用で映画上映前にそれに向けた案内が挟まるのだ。しかも、映画本編とは別に通常上映であってもペンライトを振っていいライブパートが存在する(声出しはNG)。

あまりに異文化であった。多少はアイドル系作品を見たことはあるが、ここまでライブ体験に寄っているものは記憶の限り殆どない。本編の感想云々より何よりこの異文化に驚いてしまった。応援上映じゃないのにペンライトってありにしていいんだ。知らなかった、周りの人持ってたのに俺持ってないし、すごいなんか、居たたまれない感じになってしまった。

俺が知らないだけで、アイドル系キャラが歌って踊る作品ではこの形式はあるあるなのかもしれない。そもそも映画として見たことあるアイドル系作品、トラペジウムしか無い気がする。ソシャゲ映像化でもレビュースターライトとか? テレビ版のデレマスくらい。この辺かなりノータッチだった、やばい。

電飾玩具を使っていいパート、人の薄汚れた感情を音楽と願いで浄化するという大筋……あまり詳しくないから適当なこと言えないけれど、すごい既視感がある……形こそ違えどかなりプリキュアのフォーマットで物事を運んでいるように見えた。これは東映じゃなくて松竹だけど。

プロセカのオリキャラ

ソシャゲ映像化の最大の障壁である「キャラクターまともに捌けない」問題については、4人×5セカイ=20人と、それぞれ独自に描写すること、初見に向けた配慮は殆どしないと割り切ることによっておおむねクリアされていたと思う。

序盤の日常パートの長さは……あの人数だと仕方ないのかなと。あの部分を初見に向けた人物紹介としてうまくまとめた方が完全初見には嬉しいだろうなとは思うが、ファン向けとのバランスも考えるとやむなしなのかな。コナンみたいな導入はともかくとして、字幕くらい入れればいいのにとはこの手の作品を見るたび毎回思う。とはいえ、初見バイバイ路線であることが早々に分かったので、この辺割り切れたところがある。

正直各個人の名前とか全然覚えてないが、それでも、それぞれのキャラに対し「なんかツンツンしてる」「明るくふるまってた」「独特の語彙を有している」「受験生が親に秘密でやってる」くらいの印象は持てたし、描写も十分できていたように思う。

個人的にはどこか陰鬱になりそうな雰囲気の中でも適度な緩衝材として健気に振舞っていたワンダショ組、特に天馬司君には強い好感と敬意を表したいと思った。ソシャゲの男キャラにここまで感情を寄せるなんてなかなかあることじゃない。(こいつ名前が天開司にそっくりすぎていつも分からなくなるんだけど)。

別作品では重い大筋の中でちゃらちゃらしてたやつに腹立ったりすることもあったけど、今回は受け入れられた。この違いはなんだろうね、職業エンターテイナーとしての矜持・スター性・意義を感じたからだろうか、単純な重い大筋の重さ度合いか………

本作はスマホゲームの映像化として、きれいに仕上がっているし、往年の初音ミクファンなら喜びそうな描写もあるし、プロセカの映画としては本当によくできているのだろうと思う。

……という穏当な感想では収まらない思いも、ある。ここから先はプロセカと一定距離を置いている自分の、感想という名のどす黒いお気持ち表明であることに留意してほしい

つまるところ人それぞれのボカロ像があるのだ。

歌えないミクのポテンシャル

「本当の想い」を反映するのがセカイであり、絶望や失望がこのヘドロのようなセカイとして顕現したわけである。その均衡が崩れてしまうとヤバいので、各々のグループが音楽的アプローチでそれに対処し、これに呼応するように歌声を届けられなかったミクがそのあり様を見つけ、無事に解消された、という流れである。(これを管轄していたミクと、そうでなくなったセカイにおけるミクとは果たして同等のものと言えるのか……は一先ずおいておこう)

が、スマホゲー原作とはいえこれまで数多のクリエイターを輩出してきた初音ミクの名を掲げながら、この単純さに収まってしまったのは、とても残念に思う。

「音楽の力」的なものを馬鹿にしたいわけではない。それは確かな力となることもあろう、が、それが届かないという話であった。音楽を受容する余裕もない人々がいる。

自分のできる範囲で手を伸ばそう、人を増やして機会を増やそうというアンサーではあったのだろうけど、「ミクが届けられなかった言葉を何故届けられたのか」のところはもっと深めようがあったのではないか。

技能でも才能でも鍛錬でもいいが、そこは見せられたのではないか。そしてこの「できるものとの差」は挫折の大きな原因でもある。つまり歌えないミク自体が挫折の象徴足り得た筈だ。しかし、意図的なナーフなのか、特にそういう意図がなかったのか、そういう存在にはならなかった。いずれにせよ、いかにして歌えなかったミクを花開かせるか、はもっとうまく描写できたんじゃないか。

壊れたセカイ

根本的なところとして、壊れたセカイという「ヘドロまみれのどす黒いセカイ」への向き合い方、描写の仕方がどうにも飲み込めなかった。ヘドロというか0と1の破片?だけどあふれ出方とか描き方がヘドロだったのでヘドロと呼ぶことにする。

音楽だののクリエイティブの原動力として、あの手のヘドロ・負の感情はどちらかと言えば動力源でもあると思うのだ。単純な悪し物にしてしまったのは、何だかなぁと感じる。

初音ミクと思春期の鬱屈、いわゆる病み曲は切っても切り離せない。雰囲気的にはニーゴ、あるいはあれ以上の鬱屈を、変にポジティブに変換するでもなく受け入れる需要は間違いなくあったはずである。

前の話に繋げれば、あのヘドロこそを動力にして再起するような、そんな話が作れたのではないだろうか。

……ちょっと敵キャラすぎるか。

ボーカロイドは膨大な挫折と鬱屈の上に立つ

ボカロの魅力は再生数では測れず、そのロングテールな多様性にあると思っている。私にとっての名曲のいくらかは、10万再生の大台に乗ることもなく埋もれていく。それでも私の目に留まっているだけ上澄みである。試しにニコニコで「VOCALOIDオリジナル曲」タグで検索して新しい順に並び変えてみるといい。その膨大な楽曲の数だけ物語があり、想いがある。ランキングやアワードは把握しきれないほどに実施され、そのたびに楽曲が作られ、良し悪しはともかくその数だけ勝敗が生じる。それをカラッと「今回はうまくいかなかったけど次も頑張るぞー!」と思える人ばかりではないだろう。それだけの楽曲の中には、挫折も多分に含まれるだろう。

クリエイター側だけではなく、リスナー側にも複雑な感情がある。サブカル的な側面のあったボーカロイド楽曲は、陰鬱な雰囲気を漂わせるものも多い。最近ならばぴえん系ソング、昔であれば規約違反すれすれの限界ソングが溢れていた。病み、苦痛、葛藤、毒、エログロナンセンス、メインストリームであまり大きな声で言えない苦痛のはけ口としての側面は少なくなかったはずである。

何が言いたいのかといえば、ボカロクリエイターの上澄みで構成されたプロセカが、迂闊に夢や挫折を語り、無責任に背中を押すのが、私にはちょっとグロテスクな構図に見えてしまったのだ。

プリキュアと評した中にはこの揶揄も含まれている。(そっちのファンには怒られそうだな……)子供向けに単純化された世界観の中でなら、その眩しい光こそが救うものもあるだろう。だが、それをボカロという現実で複雑な文脈を持つ存在において、ほぼそのままなぞってしまうのはどうかと思うのだ。ちょっと、重みや実感が変わってくると思う。

挫折の理由は本当に様々だと思う。些細なすれ違いや単なる飽きかもしれないが、金銭的な都合かもしれない、時間や体力、健康面かもしれない。やむにやまれぬ事情で筆を折ってきた人間は数知れない。

では、それに寄り添う音楽としてどんな言葉を投げかけるか、というのは、簡単な問題ではない。おそらく正解もない。だが、だからこそそれにどう向き合い、プロセカオリキャラたちがどんな結論を導き出すか、その苦悩はもっと何かしら描けたのではないか。この辺は多分ニーゴが一応一番頑張ってた気がする。そんなやり取りがあった気がする。でもプロセカオリキャラの実情知らねぇから雰囲気でそうっぽいと言ってるだけだけど。

救ってやるぜ的な方向性ではなく、誠実に寄り添ってほしかった。ここだけは形だけでもそういうポーズを取って欲しかった。という想いは一ボカロリスナーとして否めない。

でもこれはきっとプロセカという媒体で出される以上仕方ないのだろうというあきらめもある。そしてプロセカをはじめとした商業的なミクの売り出し方にイマイチ乗り切れない大きな理由でもある。そこが包含しようとしなかったところにこそミクの旨味があると私は思っているので。

追記:属性と感想を関連付ける動き

毎度本編よりも感想の流れの方にキレがちな自分であるが今回もまた……

俺の感想は俺の感想なので違う意見もあろうと思うし、それは全然自由なのだが……

『〇〇(頑張ってきたとか、一見誉め言葉だがその補集合で人を括ったら悪口になりそうな集合)な人には絶対刺さる』という強気の感想にはちょっと思うところがある。

この既視感前もあって、それが「映画大好きポンポさん」の時だ。あの時も似たような感想を見かけた。が、これは「悪くなかったけどそこまで過剰に褒められるような作品かなぁ、引っかかるところも……」くらいだった作品が一気にイマイチに見えてくる魔法の言葉なんだよな。

そりゃもちろん人生経験として、受け方も変わるだろうし、好きになれる作品の傾向もあるだろう。でも、お前がそれを決めるなよと。どんな作品だって刺さらん時は刺さらない。それを受け手の素質の問題にするような表現については、ちょっと選民思想・村社会的な悪い方の集団意識を感じて、不愉快な気持ちになる。

こういうこというと「書いてないこと読み取るな」とか言われそうなんだけど、補集合に思いを巡らせた程度でアレなことになるならそれはもう書いてるに等しいんだよ。変にでかい主語とかも全部そう。「Aは〇〇だ」って言って「~Aは〇〇かどうかは言及していません」が許されるのは記号論理学の世界だけなんだ。主張として発する以上暗黙の対比構造は推測されるものだし、全集合の定義が雑だからそもそも記号論理学足りえてないのだ。対偶考えてみればその無茶苦茶さがわかる。

今回についてはポンポさん以上に創作観に関する解釈違いが生じてたし……このタイプの感想が持て囃されているのは広い層を取り込もうとする上ではあまりいい傾向ではない、カルト的人気作でだけ許される仕草だぞ、とは思います。

……とはいえ自分も「これ好んでるやつ何考えてるん? 」みたいな想いになることも少なくはない……が、あくまでそれを受けての自分の思いという範囲には納めるように努めている。

「小学生みたいなユーモアって感じでこっぱずかしい」

……納まってるかなこれ。上の記事の時はかなり上位の苛立ちが入ってるとはいいつつ、自戒しながらやっていきます。

ちなみに、オタクの同族嫌悪的な話になったので言及しておくと、所謂『オタクのせいでオタクやめる』について同意しているわけではないです。自分の問題意識は「まあまあかな」くらいの層を「まあまあ」のままでいさせるためには選民意識的な振舞は害となりえるという話で、オタクの内側にいるなら別の立場のオタクになればいいだけなので……そもそもやめられねぇし。

その他、細かな不満

  • ボカロしゃべりの評価は人によるんだろうけど、特にメイコの言葉が聞き取りにくかった。性能的な限界ありそうだけど調声頑張ってほしい

  • 「ありがとう、そして、さよなら」は2回使う言葉ではないだろう

    • ボカロにおいてこれはほぼ遺言としてかなり特別な意味を持つ……と思っている。「消失」について触れた以上その特別性はわかっていたはずである。1回ならよい演出と褒めただろうけど、2回はくどいのでは。

    • 詳細な追記:https://fusetter.com/tw/6JdNHDV2

      • 自分の中ではこの言葉から「遺言」という意味以外を見出すことができていないので、「1回目は~だけど2回目は~」的な見方ができなかった。

      • 自分の枠の解釈だと「両方とも遺言」という前提として、一方をほかの楽曲の引用にしてたら何ら問題なかったかったと思うし、2回態々同じ言葉を選び同じ意味を示したと解釈するしかない。

        • この解釈だと、『壊れかけのセカイとやらについて、直せてしまった時果たしてそれは前のセカイと同じなのか。そのセカイのミクは前のバツミクと同一と言えるのか問題』に対するバッドエンドアンサーが導き出されてしまう……

  • 作中のライブ映像の出来が比較的良かった分、おまけのライブ動画はやや退屈だった。音も張りがなく、映画館という特性を生かせていないし、映像的な構図の面白みもなく、退屈であった。

    • ワンダショとレオニのライブ映像を見たが、ワンダショはかろうじて位置替えなどの動きがあったが、レオニはバンドという特性上構図すらほとんど変わらず、さすがに退屈という感想になってしまった

      • さっきからワンダショ贔屓の人?

        • 実際自分のボカロ像にかろうじて一番近いことをしているのはワンダショなので、ちょっと好感度は高めではあるのだよな

    • 例えば、手元のアップ映像を背景で流すとか、背景で派手目のPV的なものを流すとか絵的な面白みはまだ工夫できたのではないだろうか

      • コールアンドレスポンスまでいかなくても、こちらに向けたモーションは何かあってもいいのでは

    • そもそもボカロいないのはいいんスか

      • これは参加回の問題だった可能性がある

    • 作中ライブシーンとの比較になってしまっているのがよくないとは思う

    • せめてライブみたいにバリバリ音を鳴らしてくれよ。弱いって。

  • 特典の、ランダム商法がちょっと強すぎる

    • 歌ってた曲の歌詞くらいは全グループ分配りなよ

    • プロセカのスタンプラリーはもう知らん

    • そこまでリピートさせたいならリピートしがいのある複雑さ(考察要素と言ってもいい)を持った作品にしてほしかった

      • ボカロなんて作者そこまで考えてないよってぐらい考察するのが華なんだから

  • 客層、若年女性多っ!

    • 小学生みたいな子いた。本当にプロセカわかるんか?

    • 後ろで上映中くっちゃべってた外国人女性? やめてくれー!

終わりに

まぁ出来が良かったからこそ思うとこもでてくるんだろうねの気持ち。

俺はクリエイターが長生きして伸び伸びクリエイティブできたらなんでもいいよって感じです。

でも、あなたなら、挫折し苦悩する相手に何を願い、どんな言葉をかけるか?ちょっと自問したくなる作品でした。

追記2:米津玄師の時に通り過ぎた話題だと思うんだけど

あまりに賛ばかりだったので積極的に否の感想を集める悪いオタクをしていたのですが、ちょっとおもしろい視点だったので一つ記事を紹介。

あの、これ大丈夫なんですかね?? いやね、お話としてはちゃんとまとまってるし、各チームおよび初音ミクのライブシーンも綺羅びやかで良かったんですけど、これ「初音ミク」が好きな人は受け入れられんの? と心配になってしまったんです。 だって、作中でまず初音ミクの歌が届かない人がいるわけじゃないですか。それで人間が代わりにその歌を完成させて、演奏して、届ける。そうなったとき「初音ミク」って必要ないんじゃない? って結論になるわけですよ。だって歌を作るのが人間で、演奏するのも人間なんだから、そこに「ボーカロイド」が介入する余地って無いわけよ。まぁ強いて言うなら依頼者ではあるんだけど、ボーカロイドの役割が依頼者でいいのかしら……。

まぁそこには「最後には自分の歌を完成させて、初音ミクがライブやったじゃねぇか」という反論は当然あるわけだけど、そっちはそっちで大きな問題を抱えていて。というのも別に「初音ミク」は自動音楽生成マシーンでは無いわけよね、ピアノを放置していても勝手に作曲とかしないわけじゃない。なのにこの作品では初音ミクが自主的に曲と歌詞を作って歌うわけですよ。となると今度は作曲者も作詞家も、あるいは「初音ミク」の歌声を”調教”する人間も不要になっちゃってる。これはこれでクリエイターなりアーティストなりの否定に繋がってしまうわけですよ。

所謂ボカロ界隈から離れた場所にいる人のざっくりとした感想です。一周回って無かった視点だな。

ふと先日したツイートを思い出した。

ハチこと米津玄師が「砂の惑星」をリリースして、砂をサンドボックス・遊び場的な意味ではなく砂漠という荒廃という解釈で「ニコニコ・ボカロ界隈に砂かけるのか」と大変な大炎上を引き起こしてしまったのももはや7年前の話。(実際下り調子でピリピリしていたし、構図としてはボカロやめて他所に行く形になったのは否定しようがないし、誕生日ソングにしては暗いのもそれはそうなので肯定も否定もできず変な顔になってしまう)

ボカロは鬱屈的な雰囲気だけでなく、新時代を切り開くパイオニア的な側面もあり、それはカウンターカルチャーであり、プロに対するアマチュア文化、反商業、所謂嫌儲的な所と強い親和性を備えていた。それについて厳密には当時のアングラ性とかクリエイター側とリスナー側の認識の差異とか初音ミクだからこそと応援してた文化とか歌い手が元ボカロ曲の再生数を超えた云々とか、それはもういろいろあるが、ひっくるめてそういう時代だったとしか言いようがない。

その延長なのか寂しさかは知らずが、「ボカロを踏み台にする行為」とか、過度な商業展開に厳しい目が向いていた時代は、相当長かった……なんなら今でもその手の火種はボカロ界隈とプロセカ界隈の対立として形こそ変えど生き延びていると認識する。でもこないだの映画プロセカのやらかしでトレンド入りするような狂乱になってないってことは、真に時代も移り変わったのだろうか。

プロセカなんて課金ゲームがリリースできたのはそれがある程度収まった後の2020年だからであろう。……嫌儲とか関係なく今のプロセカの儲け方10~20代相手にするものとして大丈夫?とか思うところはあるが、何であれ存在自体は許容されている。

メディア露出とか、クリ奨だとかボカコレだとか、そういうものを経た結果、現在のようなプロセカ的な商業製品的な売り込みもあれば、米津玄師みたいなボカロ文化を飛び出したアーティストもいれば、波形に恋する限界ガチ恋ボカロPもいれば、俺みたいなちょっと斜に構えるような人から、リスナー文化から、いろいろが跋扈するカオスに至っている。

あの記事で「身勝手な消費者」と称される(ここだけ切り抜くと嫌な感じだけど肯定的に書いてるからね!!)ものも、リスナー文化として根付き、布教活動したりとか、マイリス作って共有したり、kiiteで一生ぐるぐる回ってたりする、そういう活動に一定の存在感が生まれた。この辺が先のような排他的な側面につながっている気はしないでもないが、なんであれボカロはここまで戸口が広がった。

そもそも、真実を話してしまうことになり申し訳ないが、初音ミクはもとはといえばロボットですらない1ソフトウェアと簡単な設定表である。そこからキャラクターを幻視して、各々が勝手にロボットだと思ったり、アイドルだと思ったり、ネギ回させたり、マスターと呼ばせたり、劣情を向けたり、結婚式を挙げたり、ごみ箱に入れたら0と1に還元される概念にしたり、いろいろしているわけだ。所有者・管理者・世話係の呼び方すらアイマス由来のP(プロデューサー)と由来不明のマスターがあるふわふわっぷり(第三者が呼ぶときは前者、初音ミクが呼ぶ場合は後者かな?)。だからまぁ、初音ミクってみんなが勝手に呼んでるだけでその実在は全部違うんですよね。(時々解釈違いで喧嘩してますが……)

その初音ミクを取り巻く二重のカオスの中で、初音ミクという舞台装置と、それを回したり見守るために人間があれやこれやしている構図になっている。カオスの掛け算だ。あの記事に対する回答は、初音ミクは舞台として必要だし、初音ミク以外は運用として必要であるし、「人間が歌ってるのを見て元気を出して勝手に歌う初音ミク」が出てきても「まぁ、そういうこともあるか……」ってファンは受け入れて流しちゃうんですよね。ここをむやみに掘り始めると思想バトルになってしまう。

するか?思想バトル。俺の初音ミク像は『膨大な人が初音ミクという偶像に実在を期待する営み・多様性の集合が見せてくる一再生ほんの一瞬見えた幻覚』ですが……

……というかそもそも商業ボカロ展開で「ボカロP・マスター」の概念が露出することがまずないんですよ。主要なライブの司会やってるときも、シンカリオンコラボも、邪心ちゃんドロップキックも、初音ミク(またはその派生)が勝手に練り歩いて物語に参加している。マスターが露出してくるのは野良の絵描きの方が圧倒的に多数。マスターもプロデューサーも基本裏方だし、プロセカは設定上別にボカロPの物語ではないのであれも通常運転。だからまぁ、初音ミクの物語はそういうものとして展開されがち、としか言いようがないんですよね。納得するかはともかく。奇しくもアイマスで言うライブ・各種CMコラボと作中コミュ・四コマ漫画の違い。ボカロにおいて公式が後者をやることはない。実際にボカロを買って君だけの物語を作ろうと言わんばかりに。

じゃあそれでそうですかって言って納得するかといえば納得できるわけもなく……

だから私はプロセカの映画としては受け入れるけど初音ミクの映画として見るなら思うところもありますよ、という立場にいる。多分向こうは初音ミクの映画として作ってないけど、『初音ミク』を描いた初のアニメ映画なのは事実なんだ。だからまぁ、はみ出てしまう感想もあるのだと思ってもらえれば。

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