わかりやすい文章を書くのは得意な方だ。そういう文章をたくさん読んで育ってきたし、それが文章の一つの正しいあり方だと信じ続けてきたから。でもそれだと退屈かもしれないと思い始めた。本当に書きたいことを書くのに、言葉は時に邪魔になる。それでも、言葉以外に表現の手段がないなら、書くしかない。
抽象画の始祖であるカンディンスキーは、夕日に照らされる干し草を描いたモネの絵を見た時、一瞬、何を描いているのか理解できなかったらしい。だが、その美しさに心打たれたことから、彼の抽象絵画への探究が始まった。対象を正確に理解できずとも感動することはできるという彼の発見は、現在の私たちに大きな勇気を与えてくれる。わからなくてもいいという自由さは、受け手の可能性を信じるという意味でとても優しく、人間的だ。だから、わかりにくさを下手さの言い訳にしてはいけないとは思いつつも、わかりやすい文章が善、という価値観から一度抜け出すことも必要だと思った。だから一度、わかりやすさや整然さというある種のお節介を捨てて、文章を書き殴ってみようと思う。
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この文章に主題はないが、書き始めたきっかけはある。昨日見た夕焼けだ。久しぶりにほとんど寝るだけの生活を三日間続けた結果、自分の中で麻痺していた感性が幾分か回復した。その状態で、去年漬けた梅酒をロックで飲むために、氷を買いにコンビニへと歩いた時の夕焼けが、何とも印象深かった。風は吹いていなかったと思う。普段会社帰りの電車から見る空も美しいが、そういう時は疲れ果てているせいか、意識を覆い尽くす靄越しに狭い窓から外を覗き込んでいるような窮屈さがあり、深く印象に刻まれないことが多い。今回はそれが取り払われ、空に広がる色が全身に飛び込んできた。
目的や目標に最適化されていた意識に隙間が空き、そこにいろんな情報が流れ込んでくる。楽しかった土曜日のライブとか、土砂降りの雨の音を聞きながら寝込んでいた昨日のこととか、演奏に集中するためにちゃんと聞けていなかった課題曲のドラム以外のパートや歌詞のこととか、いつ呼び出しても必ず会いにに来てくれるのに、何回告白しても絶対に付き合ってくれなかった昔好きだった人のこととか。当時まだ不器用だった頃の自分の好意は果たして、自分が意図する形で相手にちゃんと伝わっていたんだろうか。その好意をどう解釈するかも鑑賞者の自由だと言わんばかりに、その人の態度は曖昧だった。付き合うことで背負わざるを得なくなるものはそれなりに重たく感じるものだが、それを背負ってでも付き合いたいと覚悟を決めた相手に限って、自分の気持ちの一番おいしいところだけをつまみ食いして逃げていく。もうあんな目に合うのはごめんだ。次好きになった人とは絶対に付き合いたい。曖昧な関係なんて所詮、惚れられた側のわがままでしかない。でも、男女の関係性の発展は、世間で言われるような恋愛→付き合う→結婚、のような一直線の矢印ではなく、その間に虹のように多彩なバリエーションがある。そこの利害が合わない相手とは、結局上手くいかないのだろう。それともあの頃の幼い自分は、相手に正面からぶつかりすぎたんだろうか。対等な関係に見えるものは、実際はいつだって強者に有利だ。男女が対等に議論するには、男の存在は強すぎるし、怖すぎる。もっとゆっくりと相手の心をほぐすべきだったんだろうか。慎重に、慎重に。
何故急にそんなことを考え始めたのかよくわからないまま、ライブで演奏したヨルシカの「夕凪、某、花惑い」を聞きながら、コンビニからの帰路につく。氷を買っただけなのに、店を出るころにはもう夕焼けは落ち、夜になりかけていた。夕凪、某、花惑いは物語形式のコンセプトアルバムの一曲なので、この曲だけ聞いても曲の意図を正確に理解することはできない。なんなら曲名の意味だってよくわからない。それでも、一曲分の帰路で感傷に浸るには、自分にとっては十分だった。わからなくたって、感動はできるのだ。
自分はいつだって何もわからないままだ。今聴いている曲の歌詞の意味も、この文章を書きたいと思い立った理由も、女心も、あの時どうすべきだっかかも、これからどうすべきかも。でも多分、それでいいのだろう。わかってしまうことだって、多分それなりに退屈だろうから。