外国語を勉強していた頃、とある授業で先生が話していたことが印象深く残っている。
「キリスト教では、バベルの塔の以前には一つの言語しかありませんでした。塔の建築に怒った神様が、罰として意思疎通をできないように言語をバラバラにした。
……つまり私たちは、その“罰”を好き好んで勉強している変わり者なんですね!」
その発言で笑いが起きるような環境で過ごせた学生生活は、私の人生の中で幸せだった時期の一つと言えると思う。
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前々から言語学オリンピックには興味があったのだけど、機会があったのでようやくこの本から手出しをしてみました。いきなり過去問はハードル高いからね。
中級(大問20)までやったところ。全問正解とはいかないけども、悪くない正答率なんじゃないかしら。
知らない言語でも知っている単語が、実はそういう意味だったのか!とわかるのが面白い。そして、答えを見て「そんなところまで見ないといけないのかよ」となることもある。
よくよく考えると、エスニック料理のメニューで日本語と原語を見比べて、共通した単語から「多分これがエビ……これがスープ……?」とかやるのが好きだったので、同じようなことやってるなとは思った。
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大学時代に外国語を専攻してしまったがために、就活では「英語喋れる?」と「外国語使えないけど大丈夫ですか?」を散々訊かれた覚えがある。私は日本語もろくに喋れないので、むしろ外国語会話はしなくていいんだけど、会話で使わないと勉強した意味がないのかなって思いもして、無理に喋る機会を作ったこともあった。
でも、卒業して外国語から離れた今になって、外国語を勉強する意義は意思疎通だけではない、と自信を持って言えるようになった。
外国語と異文化を学ぶことは、自分の価値観が絶対的なものではないと知ること。英語には三単現のsがある。ドイツ語やフランス語には名詞の性がある。中国語は声調を間違えば意味が通じない。ロシア語をはじめとするスラヴ系の言語には6,7個もの格がある。アラビア語には単数と複数だけでなく、2つのものを特別に指す双数形がある。定冠詞が無い言語もある。後置修飾の言語だって、文字を持たない言語だってある。
言語を自分で作ろうと思ったら気が遠くなるような大仕事なのに、そんなものが世界にはいくつもバリエーション豊かに存在する。信じがたいことだ。
「そんな言語があるの!?」と驚く瞬間は世界の広さを感じて嬉しいし、遠く離れた言語にも共通した特徴がみられると知ったときには、自分たちが言いやすいように言葉を変えていく感覚は近しいのかもと感じて嬉しくなる。
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「今は多様性の時代だからね」と苦笑交じりに言われるのをよく聞く昨今。きっと配慮なんてしないで自分の価値観に合うものだけを選んでいられたら、楽なのだろうと思う。
だけど、私は異なる価値観の存在を認識できる自分を誇りに思う。そしてそういった考え方を育んでくれた大きな要因は、間違いなく外国語教育にあったと確信している。
受け入れようと受け入れまいと、異なる文化が存在することは事実だし、違いを拒むよりも楽しんだ方が、ずっと面白い。
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ところで冒頭の本、著者紹介を読んでいたら学部生ながら言語学オリンピックの作問をしている人とか、15言語独習のマルチリンガルとかいて、バケモンや……(※褒め言葉)と思った。いるんだよなこういう本物が……
世界って広い。