このページを訪れている人は私がLGBTQ+の当事者であることを詳細にではなくとも知っている人が大体だろう。
今日は最近仲良くなった方が主催・参加している古着や美味しいものが集まるイベントへ足を運んだ。
先日、「通販で服を買うのは怖い」「試着や服がどんなものか聞いて体験すること込みで愛着が湧く」という話を聞いた際に私はまっすぐに「わかります」とは言えなかった。
私は所謂"生物学的に"女の身体であることが嫌で、服屋で試着することも女性とみなされて接客を受けることも苦手だ。
加えて、子供の頃から不安になりやすい精神的な疾患もあり、不慣れな場所に向かうことは特に怖い。
その割には継続的に人と関わることも苦手で小・中・高・大、社会人になってからも色々あり非正規で転々と勤労している。あゝ矛盾。
装うことに関しては9才頃出会った木村カエラさんや17才頃に当時まだ解散していたTHE YELLOWMONKEYがきっかけで興味を持った。
10才前後から私はなんとなく「ふつうの女の子じゃないのかな」と思っていた。
当然、ふるまいがあんまり判らず更衣室に入る時にノックをし損ねてクラスメイトたちから「変態だ!」と罵声を受け大泣きで先生に助けてもらったり、「〇〇ちゃんは〇〇くんが好きなんだって〜」という話題も(よくわからないけど、自分が話さなくてはいけない順がまわってきたらどうしよう)と恐怖を感じていた。下着や月経の話を近い体の持ち主間ですることも未だに苦手である。
例えば、職場などでお休みしていた方が「じつは生理が重くて…」と私に打ち明けてくれた時に関しては「無理しないでくださいね。病院へ行ってみては…?」とかくらいは答えられる。「ニツケさんは大丈夫ですか?」と返ってくると適当にはぐらかす。
「身体薄いよね」「細いよね」に対してもこれは胸を潰したり、精神的な理由で毎日食事が上手くとれなかったり、運動が苦手で筋肉がないからであって…でも丸い体を隠すための努力でもあることをなかなか人には言えずにいる。
コツを聞かれれば教えられるが私が細身で身長が163cmほどで靴を履けばもう少しあるため、平たくしやすい体の優位性も感じている。
それらの経験を経て、通販で洋服が買えることにありがたみを感じ、実店舗が苦手になっていった。
新型コロナウイルスが流行した際、今まで足を運びにくかった遠方の古着店やセレクトショップが通販サイトを開いてくれた。
私は五体満足だが、心身や金銭、生活など様々な都合で遠方まで移動しにくい、でも素敵なものを身につけたいと思う人たちは嬉しかったのではないだろうか。それなりに失敗もしたけれど。
ユニクロや無印のフロアは性別がシームレスで買いやすい。買いやすいのだが、許せなかったり解決していない問題がある。
それらが使用する素材はウイグルで人権を踏み躙ってまで新疆綿を生産させ、使用を否定しないことや改善の公表もしていないこと、無印良品はそれに加えてスキンケアラインにLGBTQ+のヘイターをプロデューサーの1人にしたことなどが挙げられる。
質が良く安いことはいいことかもしれないが、誰かが犠牲を払っているのである。
私も全く知らずに誰かの人権を脅かしていることがこれら以外にも山ほどあるだろう。
金銭や精神的に余裕がなかったり、様々な理由で汚しやすいから…と買い替えやすい物として選ぶことも多いだろう。だから絶対に買うな!とは言えない。自分も不安定な生活をしているからそれはわかる。
今日も「大丈夫大丈夫!」と思っていても2時間カラオケでデカい声を出してから会場へ向かったし、帰り道に駐車場で心臓がバクバクし、息が浅くなり、運転席に座って少しだけ目を閉じる時間が発生してしまった。
「(ミスジェンダリングに)もう慣れてるから」と話す度に「そんなことに慣れないでね」とインターネット由来で仲良くなったクィアやアライの友人たちは言ってくれるけど、積み重なるとこうなるので全然慣れていないし、やっぱり慣れるものでもないのだと感じた。
先日、Instagramのハイライトにも掲載した山内尚さん、清水えす子さんの御本から言葉を借りるなら「洋服そのものに性別はない」と私も思う。
「ノンバイナリースタイルブック」、お洋服を取り扱う方にも届いてほしいなと思います。
ひとりのノンバイナリー(も色々いますからね)としては、日常生活で女性扱いをされてしまうことに慣れているつもりでも、レディース/メンズでサイズやお品物を勧められると苦しく感じる人もここにいるよと言わせてほしい。小さい/大きい、長め/短めとか言い換え方はたくさんあるので。
もしかしてもしかするとそう感じていたのは私だけじゃないかもしれない。
5年前に出したZINEのタイトルでもある「やさしい鎧」(終売)が増えてほしい。
だからこそ、ちょっとだけ自分を奮い立たせてでもイベントにお邪魔できてよかった。
今日は5、6年前の再確認の日だったのだ。