「あめんぼあかいなあいうえお」「真白な辞典を埋めていけ」(各々で)

nitsuke
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言葉にも流動性がある。

それは人を傷つける意味をあえて傷ついた側が揶揄することで虐げられてきた人にとってパワーを持つこともある。

本来、「クィア」は誰でも使用できる言葉で、あくまで今の私の中では辞書に①②〜と同音で違う意味を持つイメージだ。

が、「みんなと違うかも…」と思い始めた子どもの頃に「変態だ」と大勢から罵倒された経験(以下リンク冒頭)を想起してしまうのでできることなら使用を控えたい気持ちもある。代用できる言葉がなかなか見当たらず、実行できずにいることも申し訳ない。

社会の移ろいによって言葉の意味は増減するが、属性・マイノリティ性そのものは奪われてはいけないと思っている。

私はなんらかの属性を自分で選択しラベリングすることをお気に入りシールと表現している。

もともとシールが好きで、そこにさらにKPOPおたくカルチャーにあるトレカデコや携帯ケースに挟むことから派生して流動性について伝えやすい比喩として用いる。

あくまでも“自分で理解し肯定的に捉えられた場合”であることが大前提だ。

また、言葉をとりあえず知ることが日本の主要メディアでは第一になりすぎている印象がある。意味合いやさらに細分化した属性、存在の理解の増進などはなされていない。こういう人がいますよ、はい終わり。

他人のお気に入りシールを勝手に剥がしてもっていく→それをなんらかの利益とすることは、マイノリティ性を消費・搾取する行為だと考えている。そうなりやすいような無垢に意地悪な人が増えやすい社会がかなしく、くるしく、時には消えてしまいたくもなる。

お気に入りシールを自分で貼ったり剥がしたり、デコったりすること、見せたり見せなかったりすることは持ち主自身が選ぶことだ。

素敵だから見て〜と思うが、なんせ世の理解が進んでいないのでオフラインでは「積極的には見せない」を選ぶことのほうが多い。

また「多様性(笑)」だとか「よくわかんないから説明して」だとか言われたくない。誰だって反論できる時とできない時がある。私はそれに疲れている。

お気に入りシールがどこででも誰にとってもきらきら光る日が来るよう、学び・創作・反省のサイクルを回し続けたいと思う。

そのために自分ができることが、日記、イラストレーション、短歌、すこしばかりのグラフィックデザイン、装い、持ち物等々での存在証明である。ひとりインターセクショナル。

自分が生きているうちに誰にとっても社会はよくならないかもしれないが、生きているうちしか回せないのなら出来るだけ回すしかないのだ。

なんだかハム太郎の終わりみたいになってしまったのだ…(ヘケッ)

@brainjolim
短歌とイラストレーションが趣味の厭世生まれの星。