発達障害の診断を受けたら実家で軟禁処分になった話

bubushin
·

初めましてというべきか、初投稿があんまりなタイトルですが、どこかで書いて気持ちを整理する必要を感じたので、やっと生活が落ち着いてきた折を見て「落ち着くまでの私の経緯」を投稿してみます。

文章化する以前に思い返すのも辛い時期が数年続き、また医師の言葉も聞かなかった両親からやっと離れて暮らすことができるまで多分、10年。口頭でそれを説明しようとすると軽く30分消費します。それぐらい色々ありました。

前置き程度にプラスして、私は大人になってから「ADHDのグレーゾーン」と診断を受けました。厳密にいえば、まだ大人の不定型発達はあまり知られておらず、母に連れていかれた心療内科でも

「子どものころの既往歴がなければ正式な診断を出せない」

と、二次障害である重度の不眠症や不安発作の治療ばかりで長い間「疑いありのグレーゾーン」で、謎に薬をとっかえひっかえしていました。無論、先天性の発達障害は良くなるものではありません。むしろ障害の疑いにより、私の状態は劇的に悪化していきました。

医師の診断を受けたその日から、私の両親、特に母はひどく落ち込み、ただでさえ、私の大学入学前からヒステリーを起こしやすかった母の態度が激変しました。

「病院からの帰り、駅のホームで泣いてしまった。お前のせいだ」

「お前が障碍者手帳を取得してから、私の友達が次々と離れていった。お前のせいだ」

「お前らキ●ガイの血筋がいるせいで、妹ちゃんは『ぞの内自分も精神を病むんだ』ってなげやりになってたのよ。お前のせいだ」

「こんなキ●ガイどもの世話をこれから、5年も10年も続けていかないといけないのか!誰のせい!?お前のせいだーーーー!!」

念のため、私の両親は教員です。2人とも支援を必要とする生徒さんを担当したり、母に限っては特別支援学校で教鞭を取っていた時期もありました。

だからこそ、これほどまで母が障害そのものを嫌悪、もとい憎んでいたのを知ったときは衝撃でした。障害者である私へ向かっていた怒りの感情の大きさは今でも私の中で「かさぶたのできない傷」と言いますか。

人間があまりの怒りで瞳孔を目いっぱい開き、顎が外れそうなほど開いた口で「お前のせいだ!」と怒鳴る母の顔は、今でも日常生活に支障をきたすほど目に焼き付いています。

自分の血縁者に障害者がいる。その事実がまず母のプライドと世間体をこの上なく傷つけたのでしょう。教員であるからと私も油断していました。「子どもの権利条約」を「読みなさい」と私によこして、その手前で体罰は当たり前。ただし悲鳴を上げたり、声を上げて泣くと「近所に聞こえたらあんたがキチ●イだってばれるだろうが!」と黙らせるためにまた張り倒す。

当時は、母も子育てと仕事のストレスを子どもで発散しているのだろうと、そう思うことにしていました。

「お前は変な子だったから、殴って育てるしかなかった」

「亡くなったお爺ちゃんはあんたを矯正しようと、他の孫より世話を焼いて教育に尽くしてきた」

と嘆いていました。嘆きながら、台所に立てば包丁片手に食材を私にぶつけたり、ダサい服を着ているからと、私を捕まえて服をキッチン鋏で切り裂いて脱がしたり、勉強をさぼっていると判じたら目の前でノートも文具も真っ二つにへし折る。

健常で気配り上手な妹のいないところでそういった説教をしていましたし、妹を私と父という「キ●ガイの血筋」から守り通すため、母は徹底して私を管理下に置こうと必死で、あまりにも必死すぎて

父ですら、自分の授業中に精神的な発作を起こした生徒をあざ笑ったりと散々な倫理観で、「自分は特別に優秀で、誰からも好かれている。トラブルなんて自分とは関係ない」といった、明らかに特性を持っていながら「医師がダメ出しするような謎の自己愛」で家族を振り回してきました。

休職を挟みながらうつ病などの治療をしていた時も、病識がなかったのでしょうが、いくら止めても晩酌も居酒屋巡りもやめず、そのたび体調を崩して母の逆鱗に触れていました。

父は私にも母にも関わろうとせず、母が怒る寸前に外へ逃げ出していました。残された私は母が「世間様、ご近所さまにばれないよう」怒りを吐き終えるまで震えていました。父を追って私も出かけようとすれば、謎の歌を歌って出口を塞ぎ、

「お前らキ●ガイはつらい気持ちも浮かんでこない。頭がおかしい振りをすれば私もつらくなくなるはずだ」

と、時には「家の中でも濡れていい場所を選んで掃除するため」と称して、片手鍋いっぱいに汲んだ水を階段にざあざあ流していました。

二階に部屋がある私は出ることはおろか、「親戚にチクるつもりだろう」と連絡手段の一切を取り上げられていたため、一歩も動けません。

不安発作は何とか治りましたが、今でも私の思考は「母を怒らせないこと」を最上位命令として動いています。

母にとって仕事をすることは当たり前。大学は行っても親戚の子どもたちの中でお前は最下位の落ちこぼれ。

母は頻繁に、最終的には私が視界に入るだけでも癇癪を起しました。

会社に寝泊まりも当たり前だった会社を体調不良で辞めて、療養中だった私を「無職の身分」と呼び、「無職の身分は社会と接点を持つ必要はない。よって外出は許可しない」。

医師を変えて、「このまま実家暮らしで過干渉を続けていれば、お子さんは衰弱するばかりです」と両親を説得してもらい、1人暮らしが叶ってからまた約2年は毎日両親が来て「近所に聞こえないように」取り囲んで説教をしていました。

今、こうして仕事に復帰できた自分が時々信じられなくなります。

音声記録や文面に残っていない父と母の罵詈雑言は「なかったこと」とされて、少しでも今までの経緯に触れれば母は私を人目につかないところへ引きずり込んで、「普通にしろ、そんなことにこだわっているからお前は頭がおかしいんだ」

とか何とか。医師の過干渉をやめるようにという忠告に「娘が仕事を真面目に続ける薬をください!」と繰り返していた頃はまごうことなき現実だったと、かかりつけの医師と話題に出るたび笑うことはできるようになりました。