本屋で「唐十郎傑作戯曲集」と山崎正和「演技する精神/変身の美学」を買った。
オスカル・パニッツァの世界、それはどこか演劇的な世界である。『蝋人形館』はキリストの磔刑の人形劇を扱っているし、『留の山』も主人公の見る出来事は演劇として映っている。演劇的な世界とはなんだろうか。それは偽の世界、どこか滑稽な世界だ。パニッツァを偏愛し翻訳したのが種村季弘というのもうなずける。種村季弘の世界観とは、〈世界が不完全な「贋なるものの」の相の下に横たわっていると観る愚神創世説的な思想のあべこべ性〉(諏訪哲史「偏愛蔵書室」)であるからだ。神の贋物としての人間、人間の贋物としての人形……。パニッツァの演劇的な世界観は、まさにこの贋の世界観に重なっている。「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンが、演劇や映画を嫌っていたのも、この贋の世界を嫌っていたからに他ならない。演劇、それはどこか作りものめいた世界だ。パニッツァの視点は、この現実世界を作りものめいたものとして眺めている。だからキリストの磔刑でさえどこか滑稽なのだ。
僕が演劇に興味を持ったきっかけは寺山修司だった。僕が興味を持ったのはただの演劇ではなく、演劇の形式を問う寺山修司の前衛演劇だった。前衛的なもの、それは前提となっている形式、規則を問い、その芸術媒体における可能性を広げ、その芸術媒体の本質を探るものだ。寺山修司は舞台と観客席という、演劇における前提的な境界を破壊し(俳優が観客に接触するなど)、舞台は劇場ではなく、演劇が発生すればそこが舞台になると市街劇を行い劇場の概念を破壊した。それはまさに演劇における前提を問い、演劇の本質を探る破壊であった。また、寺山修司の演劇におけるテーマは〈戯曲〉からの脱却であった。〈戯曲〉にとどまる限り、演劇は文学でしかなくなってしまうからだ。ここでいう前衛とは、G・R。ホッケのいう反古典としての〈マニエリスム〉かもしれない。