四月十九日 カフカの無意識の罪

文学少女
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公開:2026/4/20

 カフカの「中庭の門」は、(カフカの多くの作品に見受けられることだが)夢のような小品だ。〈妹が門をたたいたのは面白半分だったのか、何の気なしにたたいたのか、それとも拳でおどしてみるつもりだったのか。あるいわそもそも、たたいたりはしなかったのか〉。覚醒した状態で夢を語っているような曖昧さ。そして知らない村に入り、人々が家から飛び出し、怖い顔をしている。まさに夢の景色だ。不自然な人の量、怖い顔。そして門をたたいたことで主人がお前たちを訴えると告げられる。論理的な接続や現実性はないが、根底にカフカの《罪悪感》があることは間違いない。《法》というものはカフカの世界に不条理なものとして登場する。突然訴えられる「審判」のヨーゼフ・Kもそうだ。ある種の人間には《罪悪感》がつきまとう。カフカの《罪悪感》とは何なのだろうか。〈遠くに煙が立ちのぼり、いまにも炎が上がりそうだ。しかし、実のところそれは実際は騎馬隊で、砂煙りをあげて中庭の門を走りこんだ〉。この描写にも夢を感じる。まず煙の形象が現れる、それは「実は」騎馬隊の砂煙りだった、という順序は、夢に特有のものだ。形象に対し、ひねり出された因果、といった夢の作業は僕の夢にもあった。僕はくるぶしから血が出ている夢を見たが、起きてみると、そこに猫が寝ていたのだった。身体が感じていた熱の原因を、夢は血として作り出していたのだ。この因果関係の逆転。結果から原因が作られている。安部公房の「壁」では影を失ってから体が失われていた。《体の喪失→影の喪失》を逆転し《影の喪失→体の喪失》となっている。部屋に入ると、待っていた判事が「気の毒だな」と《私》に告げる。判決から裁判という順序、もしくは過程の喪失である。カフカにおいて、その強迫観念は《有罪》にある。「審判」でもヨーゼフ・Kはまず《有罪》であることから始まる。《有罪→裁判》の順序だ。〈法律や不文律は、太古の世界においては、文字に表記されることがなかった。ひとは知らずにその法を踏み越えて、贖罪をさせられることがありえた〉(ベンヤミン「フランツ・カフカ」)。カフカの《罪》、それは無意識の《罪》、無意識が故の《罪》だ。〈「自分のほかにも世界があることを思い知ったか。これまでおまえは自分のことしか知らなかった! 本来は無邪気な子供であったにせよ、しょせんは悪魔のような悪だったわけだ!──だからこそ知るがいい、わしは今、おまえに死を命じる、溺れ死ね!」〉(「判決」)。人間の無意識が、無意識だからこそ、知らないうちに罪を犯している、というのが、カフカの世界の《罪》だ。そう思うと、カフカが夢に関心を持っていたのもうなずける。夢は無意識の世界だからだ。