四月十六日 空っぽの空気

文学少女
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公開:2026/4/17

 夏のように鮮やかな青空。雲は陰影を深くし、燃えていた。鋭い日差しに照らされた景色は、その輝きから、夏のように思えた。春が深まり、夏へと動いていくのだろう。最近は、五月ごろにはもう夏のような暑さになる。

 ランダウ=リフシッツ『場の古典論』の精読。極度に情報が圧縮された文章が並ぶ。不思議な文章だ。一文を解きほぐしていくといくつかの文章に展開できるように思える。本質を鋭く捉えている、とも言えるだろう。文章の意味、物理的現象の像を吟味していく。

 『転校生とブラックジャック』第七章「談話室」にて、この本が対話篇の形式をとった理由が書かれていた。いくつかの視点(批判的なものを含めて)が登場するが、それはいずれも哲学的な問いの一部となる(本書はこれを際立たせている、とのこと。たしかに際立たせているのであって、『世界の独在論的存在構造』においても、様々な視点から問題を眺め、それを問いに含めていく、という思考がなされている)。哲学は解答を得るものではなく問いを深めていくものという永井の姿勢が顕著に現れている。批判を含め、複数の登場人物の議論は問いを深めている。《問いを深める》とはなんだろうか。永井は問いから考えられるあらゆる議論を展開していく。これは『青色本を掘り崩す』において顕著である。問いを発展させていく、とも言える。永井の哲学では、独在性、独我論という問いを深めていくことで、他の哲学との接続がされていく。

 院試に向けて問題を解いていたが、猛烈な、眠気、いや、〈倦怠〉が襲ってきた。こんなつまらないことをして何になるのか。そういった思いがふつふつと湧きあがってきて、僕はもう試験勉強をすることに耐えられなくなった。頭に麻痺の煙が広がっていく。夕焼けが去り、夜になろうと、淡い紺色の空が広がりつつある街中で、冷たい風を浴びながら、僕は考えていた。つまらない。僕はどうしたらいいのだろう。何もしたくない。僕は何になるのか。「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」というヘッセの言葉が頭をよぎる。僕は詩人になりたい。それ以外のものは至極つまらず、僕には何もできないような気持になってくる。かといって、僕にはそれだけの何かがあるだろうか。いや、それはどうでもいいことだ。言葉に真摯であり続けることだけが、僕にできることだ。頭が重たい。精神力が削がれていく。僕を底のない泥沼へと〈倦怠〉が引きずり込んでくる。苦しい。僕はいつまでもがけばいい? きっと、生きている限り、僕はもがかなければいけない。空虚な何かをかき回し、何もつかめないことを繰り返し、感触のないなかでひたすら無感覚で虚無な行為を繰り返さなければいけない。僕の手のひらになにがあるだろう? そこにはなにもない。少しひんやりとした、空っぽの空気が、手のひらに感じられるだけだ。