一月九日
今日から、日記をつけようと思った。その理由は、今日買った「ベンヤミン・コレクション6 断片の力」の中に、日記に関する記述があったからだ。そこには、次のような言葉があった。
『ある日、魂たちは絶望へと目覚める。これが、すなわち、日記の生まれる日である』『日記とはひとつの解放行為なのであって、それが勝利する場合、その勝利は密やかにして無際限である』
この言葉が、僕の魂に作用して、日記を書こうと思わせたのだ。
今日、ある景色が、僕の心に残った。それは、東京の夕暮れであった。鋭い、夕陽の日差しが、無機質なビル群を照らし、ビルは、金属の光沢を、オレンジの輝きを、身に纏っていた。都会の高層ビル、それは、無機質で、人間の都市文明の象徴であり、それが自然の象徴である太陽に照らされてオレンジに染まっている情景が、なんだか、僕には不思議に思えたのであった。オレンジから紫へ、雲一つない空は、透明で鮮やかなグラデーションに彩られていた。都市文明と自然。それは僕が最近読んでいるル・クレジオの「歌の祭り」や「悪魔祓い」を思い出させる。
正月に買ったミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」を、電車の中や授業中に読み進めていた。クンデラもそうだが、僕が最近読んでいる本には亡命という行為が付きまとっているように思える。クンデラはチェコからパリに亡命した作家であり、また、僕が愛読するナボコフもロシアからアメリカに亡命した作家である。最近読み終えた「文盲」の作者アゴタ・クリストフもハンガリーからスイスに亡命し、少しずつ読み進めていた「ヘラクレイトスの火」の作者であり生化学者のシャルガフも、ハンガリーからアメリカに亡命している。そういえば亡命に言及していた山口昌男の「本の神話学」も……などと、数えだすとキリがなさそうだ。中にはシャルガフやアゴタ・クリストフのように、母国語を剥奪された人物も少なくない。亡命と言語、そこには、言語とは生活様式であるというウィトゲンシュタインの哲学と照らし合わせ、人間の根幹に関わる問題が潜んでいるように思える。