「佐川ちか全集」を読み進めていた。佐川ちかの、背後に死や憂鬱が潜んでいる、気迫のこもった強烈な言葉は、僕の魂を揺すぶる。僕はその言葉を丹念にたどり、胸に、痛みを覚えた。佐川ちかの言葉は、ナイフのように僕の胸を突き刺し、その美しさが、僕を恍惚とさせる。〈思出は記憶の道の上に堆積してゐる。白リンネルを拡げてゐるやうに〉(「循環路」)。
「カイエ」の記録。
『生が、言い換えれば、曖昧なものそのものが思考の対象になるや、とたんに思考は眩暈に襲われるが、その眩暈のなかで、自殺はさながらガードレールのようにも見える』
『もう失望のためのエネルギーしかない──これが反抗しすぎた者の運命だ』
『「どんな哲学も一時間の苦しみにさえ若かない」──この、パスカルの断言、これは、不眠の時期以来、哲学の本を読んだり、読み返したりするたびに、いつも私が無意識のうちに繰り返した断言だ』
ユイスマンスの「さかしま」を読み終える。「この世から遠く逃れ去りたい」と、隠遁生活を送り、夢想に耽り、じわじわと精神と肉体が朽ちていくデ・ゼッサント。僕はどれほどこの主人公と自分を重ねたことだろう……。部屋にひきこもって書物を貪る今の僕が「さかしま」を読み始めたことは、運命的なものを感じる。恐らく、恐らくだが、書物というのは、然るべきときに僕のもとにやってくるのではないだろうか。いつ何を読むかというのはもちろん偶然が支配している物事ではあるが、僕には、あらゆる書物は必然によって僕のもとにやってきたように思える。太宰治や、シオランやサリンジャーを読んだときのことを回想すると、そう感じざるを得ない。
クレメンス・J・ゼッツ「丸いもののもつ慰め」が届く。
頭が猛烈に痛い。またこの頭痛だ。僕は人生のうちあと何回この頭痛に悩まされればいいのだろう。この頭痛は僕の意識をすべて奪ってしまう。頭痛が思考を支配する。頭痛。頭痛。頭痛。感覚は邪魔だ。こころも体も透明になれるのなら! 存在というものが忌まわしい。どうして僕は存在しているんだ。原罪とは存在そのものではないか? 人は存在するがゆえに原罪を背負っているというのなら……。すべては存在しているからだ。頭痛も苦悩も憂鬱も。頭痛に苛まれれば苛まれるほどに僕はシオランの思考に近づいているような感覚になる。頭痛。光が疎ましくなる。光が頭痛を刺激する。暗闇が欲しい。何も見えず、何も聞こえず、何も感じることのない暗闇が欲しい。僕はそこで膝を抱えて、座っていたい。