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ビンスワンガーとバシュラール(夢の純粋な運動を捉えるために)

文学少女
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公開:2026/9/22

 フーコーの『ビンスワンガー『夢と実存』への序論』では、フロイトが夢そのものを捉えず、覚醒時の論理に夢を当てはめ、夢を心理学化してしまったがために、夢の象徴からひとつの意味しか取り出すことしかできず、夢の特権性、複数の、汲みつくせない意味を取り出すことに失敗しているとされている。バシュラールの『空と夢』でも、同じようなことが語られる。飛行の夢は、翼があるから飛ぶのではなく、飛ぶから翼があるのだと。気球や飛行機といったイメージは合理化されてしまったもので、つまり、覚醒時の論理、言語によって飛行の夢を合理化してしまっているということだ。バシュラールが言っているのも、夢そのもの、夢の純粋な想像力、その運動、その力学そのものを調べなければいけない、ということだ。思えば、夢のようなカフカの小品『中庭の門』では、まず煙の形象が現れる、それは「実は」騎馬隊の砂煙りだった、という夢に特有の順序がある。形象に対し、ひねり出された因果は、飛んだから、翼がある、翼は結果だというバシュラールに通ずるものがある。このとき、翼という象徴ではなく、飛行そのものを見なければいけない。夢の純粋なイメージ、その運動、特有の文法(それは論理とは違ってくるだろう)を、探求しなければいけない。精神分析はたしかに画期的だったが、フーコーやバシュラールの批判を通して、よりラディカルな、夢そのもの、夢の純粋性を、見ていく必要がある。そこには覚醒時のものとは違う論理と言語があり、より豊かな意味が含まれている。夢は不思議なものだ。人類の歴史において、夢の果たした役割はあまりにも膨大だろう。それが覚醒時にどう解釈されるかは時代に寄るが、古来、夢は人類と共にあり、宗教、哲学、文学、生活様式に、夢はからんでいる。それゆえ、夢の探求は分野を横断したものでなければならないだろう。夢の純粋性の探求、このテーマで研究をしている人が、きっと、世界のどこかにはいるだろう。どんな研究がされているのか、僕は気になる。いずれ、本で読めればいいのだが……。