三月九日 文化人類学と精神分析

文学少女
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公開:2026/3/9

 昨夜、あまりにも眠たく、「カイエ」を読まずに寝てしまった。途中で起きてしまったりしたものの、久しぶりによく眠れたような気がしたが、やはり昼前と夕方に眠くなり、仮眠をとった。

 今日読んでいた松本卓也著「ジャック・ラカン」の第二章「神話と構造」で、ラカンが精神分析においてレヴィ=ストロースの「構造人類学」における「構造」と「無意識」の概念を用いていたことを知り、近頃僕が読んでいるものの繋がりが見え始めた。フーコーの「言葉と物」では文化人類学と精神分析をパラレルに論じている箇所がある。フーコーは〈文化人類学も精神分析も、人文諸科学のなかにあらわれるようなかたちでの人間それ自体にではなく、人間についての知一般を可能にする分野に向かって問いかける〉とし、文化人類学と精神分析に「特権的位置」を見出している。特に、〈無意識的なものがそれ自身ある種の形式的構造で《ある》──という発見によって、文化人類学の次元にふたたびつながっていくにちがいない〉という記述は、まさにラカンの「構造」と「無意識」の見方そのものだ。〈鼠男〔患者〕にとっての先行する〔親世代の〕構造は、患者の「無意識」を構成〉(「ジャック・ラカン」)していたのだ。また、山口昌男は「精神医学と人間科学の対話」において〈文化人類学と精神医学が、接近はしなくても、パラレルな問題を共有するに至っているような気がします〉と述べている。ここでは文化における両極性の視点から分裂病について論じられていて、祝祭=躁病などの見方が提示される。

 頭のなかで繰り返されるフレーズ。〈きっとずっと自分でわたしは/朝ばかりを消してしまった/きっとこんな心の形が/台無しにするのだ〉(笹川真生「Dokujoutai」)

 買った本:中村達「君たちの記念碑はどこにある?」。

 届いた本:クロード・アジェージュ「絶滅していく言語を救うために」(糟谷啓介訳)