プラットホームの錆びた屋根の間から覗く、鼠色の雲に埋め尽くされた濁った空に、透明な三日月が浮かんでいた。その三日月を見て、僕は酷く陰鬱な気分になった。
このとき、僕は高校二年生で、三月だった。肌をそっと優しく撫でるような、冷たい空気が漂う朝だった。学校へと向かう電車を、僕はただ待っていた。
「まもなく、2番線に、急行、○○行が、10両編成で参ります」
駅のアナウンスが聞こえ、僕は視線を空から下ろし、真っ直ぐ前を見ていた。それでも、透明な三日月はまだ僕の視界の中に浮かんでいた。この透明な三日月は、空に浮かんでいたのではなく、僕の視界に浮かんでいたのだ。透明な三日月は、輪郭をうねうねと動かし、ちかちかと煌めいていた。これは、芥川龍之介が「歯車」と呼んでいたもので、その後訪れる激しい頭痛と吐き気の前兆だった。この後、波打つような激しい頭痛と、喉から湧き上がって来る吐き気が僕を襲うと思うと、僕は気が狂いそうだった。
電車が走る音が、段々と近づいてきた。ブレーキ音を響かせながら、電車は僕の前を通り過ぎてゆき、弱々しい風を吹かした。電車は次第に減速し、乗車位置目標の線にピッタリとドアを合わせながら止まった。がちゃんとドアが開き、数人が降りた。そのとき、ついに激しい頭痛と吐き気が、僕を襲った。
僕は電車に乗り込み、流れるように席に着いた。ずきん、ずきん、と頭痛は波を打ち、湧き上がる吐き気が苦しかった。目に入る光が嫌で嫌で仕方なかった僕は、瞼を閉じた。それでも、暗闇の視界の中で、うねうねと動く透明な三日月は浮かんでいて、輝いていた。外から入る光を遮断すると、いくらか頭痛と吐き気が和らいだような気がした。
電車に揺られながら、僕は透明な三日月と見つめあっていた。三日月は、おぞましくて、恐ろしくて、僕を嘲笑っているような気がした。僕は早く楽になりたかった。この頭痛と吐き気から早く解放されることを、ただひたすらに祈っていた。電車をおりる頃には、透明な三日月は姿を消していた。
※※※
この日の四時間目の授業は、古典だった。古典の先生は、顔も体も丸々と太り、シミが転々とついた頭皮に、白髪が僅かに残ってる、年配の男だった。つまらない授業の内容と、呟くような先生の声が、僕の眠気を誘っていた。ぼんやりとした頭で、僕は頬杖をしながら窓から外の景色を眺めていた。
曇天の空の下には、深緑の葉が茂る木に囲まれた校庭あり、その周りには、水が張っていない、雑草が生い茂る田んぼか一面に広がっていた。遠くにある山々は、霧に覆われて姿を隠していた。窓から見る、そんな景色は、いつもありありと雄大さを見せつける自然の景色とは違って、なんとも卑屈で、陰気だった。そんな景色を眺めて、僕の憂鬱はますます深くなった。頬杖をしている机に吸い込まれるように、体がどんどん重くなっているような気がした。校庭には、体育でサッカーをしている生徒達の姿があった。時折、楽しそうな声が、窓から漏れてきていた。その楽しそうな声を聞くたび、僕は苦しかった。
僕はこの頃、なぜ生きてるのかが分からなかった。将来の夢も、目標もなければ、熱中できるような趣味もなかった。暇なときは、家にある本などを読んでいたが、別に読書が好きというわけでもなかった。僕は部活にも入っていなかった。中学まで何となく続けていた野球も、やる気にはならなかった。何か面白そうな部活に入ろうと思っていたが、特に僕の心を引くような部活はなかった。ただ、日々を淡々と過ごしていた。
そんな僕は、高校を卒業したらどんな未来が待ち受けているのか、全く想像ができなかった。この日、山々を覆い隠していたような濃い霧が、僕の将来にもかかっていた。未来を見ようとしても、濃い霧で視界は霞んで、何も見えなかった。そんな僕は、将来に対する漠然とした不安を抱えていた。特に何かが不安というわけではない。掴みどころのない、漠然とした不安だ。透明な三日月が見えだしたのも、この漠然とした不安を感じてからだった。透明な三日月は、不安に苦しむ自分をさらに追い詰めた。
毎晩、僕の部屋にある掛け時計が午前0時に鳴らす「星に願いを」のオルゴールを聴くと、今日も一日を無駄にしたんだなという虚無感が僕を襲った。濃霧で見えない将来に、また近づいたんだなと思うと、僕は苦しかった。そんな僕には目もくれず、毎晩鳴るオルゴールの美しい音色は、僕の耳に清らかに流れてきて、僕の心に染み入っていた。音楽と同時に、「星に願いを」の歌詞が、僕の頭の中で流れていた。
『輝く星に心の夢を
祈ればいつか叶うでしょう
きらきら星は不思議な力
あなたの夢を満たすでしょう
人は誰もひとり
哀しい夜を過ごしてる
星に祈れば淋しい日々を
光り照らしてくれるでしょう』
この歌詞は、僕に対する皮肉のようにしか感じられなかった。でも僕は、毎晩、自分の部屋の窓から夜空を眺めていた。煌めく星が一面に散らばった、嘘みたいに美しい澄んだ星空と、優雅に浮かぶ月を眺めては、僕は何かを願っていた。夢も目標もないはずなのに、何かを願っていたのだ。全てを諦めたような風貌を装いながら、僕の心の底には、願いがあった。
「キーンコーンカーンコーン」
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、僕は我に返った。黒板は、源氏物語の文章と、その脇に書かれた品詞で埋め尽くされていたが、僕のノートは真っ白だった。
もう消されてしまったところを、ノート提出の前に、誰かに頼んで写させてもらわなきゃいけないことを考えると、僕はまた憂鬱になった。気楽に頼み事ができるような友人がいなかったからだ。そして、頼み事ということを僕は罪悪のように感じていた。
昼休みは、母が作った弁当を食べながら、周りの人と雑談をしていた。人と話していると、僕の憂鬱はかすかに晴れて、気持ちが良かった。人と話すとき、僕はいつでも取り繕った笑顔を浮かべていた。これは、僕の幼い頃からの癖だった。僕は欺瞞を嫌いながら、僕自身も欺瞞に満ちていた。それゆえ、僕は僕が嫌いで仕方なかった。人間の醜い部分を受け入れられないように、僕は僕自身を受け入れられなかった。僕も、人間だからだ。
笑顔を浮かべていないと、不安なのだ。笑顔をしなければ、憂鬱な感情が漏れだしてきて、陰鬱で、もの悲しい表情を浮かべてしまうのではないかと、恐ろしいのだ。僕は人と話すときはその憂鬱が溢れないように、笑顔という表情でそっと蓋をしていた。
学校の人との関係は、学校で話すのみで、それ以上でも以下でもなかった。僕は人に踏み込むことができなかった。これは、僕の家族に対しても同様だった。臆病な僕は、ずっと人との間に厚くて高い壁があった。これは人に限った話ではなかった。僕はあらゆる物事と距離を置き、壁を築いていた。僕は物事にのめり込むということができなかった。高校球児が流す涙を見て、僕は感動するわけでもなく、嘲笑うわけでもなく、ただひたすらに羨ましかった。彼らは僕と違って、本気になれるのだ。本気になれないのは、臆病な自尊心によるものではなかった。僕は、のめり込むということが怖かったのだ。常に冷静に、自分を批判していないと落ち着かないのだ。
そんな僕は、ただひたすらに、孤独だった。家族と談笑しようと、友達と遊んでいようと、僕の心はいつも、孤独だった。
廊下側の後ろの席から、騒がしい話し声が僕の耳に届いていた。その中に、近しい人を執拗に罵って攻撃する男子生徒がいた。彼は、常に近しい人に対して暴言を吐き、近しい人を侮辱していた。僕は彼を見るといつも不快だった。
それは、僕の良心から来るものではなかった。彼は、僕と同じ臆病者だと、僕はわかっていたからだった。人に攻撃することで、彼自身の繊細なガラスのハートを守っていたのだ。攻撃は最大の防御というわけだ。彼は人に攻撃することでしか人とコミュニケーションを取れないようであった。彼にとって人と繋がれる唯一の手段が、人への攻撃だったのだ。
周りの人も、彼の繊細さには気づいているようで、彼の攻撃を優しく躱していた。その光景は、哀れだった。しかし、僕は彼よりも惨めな存在に思えた。人と繋がれる手段すら、僕は持っていないように思えたからだ。
※※※
6時間目は、総合の時間だった。授業の冒頭が始まると、担任の平田先生は神妙な面持ちで話し始めた。
「えー、皆さん。朝のHRで話した通り、2時46分に1分間の黙祷があります。46分になったら放送が入るので、皆さん黙祷をしてください。あの震災から11年が経ちました。みんなは、えー、年長だったのか。ずいぶん経ちましたね。黙祷があるので、その1分前くらいに一旦授業は止めますので、よろしくお願いします。さて、今日の総合は…」
この日は、2022年3月11日。東日本大震災から11年が経った日だった。もう、11年なのか、まだ、11年なのか、僕にはよく分からなかった。11年前のことなんて、僕はほとんど思い出せないけれど、あの日のことは、昨日のことのように鮮明に思い出すことが出来た。
※※※
11年前のあの日、僕はまだ6歳だった。幼稚園の園庭で、僕はブランコを漕いで遊んでいた。雲ひとつないみずみずしい水色の空がどこまでも広がっていた。優しい日光が降り注ぎ、穏やかな陽気だった。掴んでいたブランコの金属の鎖は冷たくて、ざらざらしていた。前に揺れるたびに受ける風が、心地よかった。
ブランコの前にいた先生が、腕時計を見て
「みんなー、もう終わりよー」
と声をかけ、僕は足に地面をつけてブランコの勢いを殺し、ブランコを降りた。小さな砂埃が舞っていた。その時だった。
大地が、揺れた。
僕は咄嗟に、膝を着いてブランコの柵に掴まっていた。激しく地面が、揺れ続けた。僕はただ必死に、ブランコの柵に掴まって、呆然とすることしか出来なかった。周りの子供も、僕と同じように何かにしがみついていた。何が起こったのか、分からなかった。周りにいた先生も
「なにこれ…」
と言って立ち尽くしていた。その後、先生は大丈夫?と叫びながら園児の様子を見て回っていた。あの時の先生の緊迫した声が、ただ事じゃないことを物語っていて、11年経っても僕の脳裏に焼き付いていた。園舎から他の先生も出てきて、外の様子を伺っていた。
地震で揺れるブランコの鎖が、かちゃかちゃと鳴らす高い音が、澄んだ青空の下で響いていた。
※※※
その後の総合の時間では、大学進学についての説明が行われた。僕の高校は進学校で、みんな上位の大学を志していた。周りはしっかりと未来を見すえているように見えた。漠然とした不安を抱えていた僕は、その光景を見ると胸が痛かった。名前だけを書いた進路のアンケートのプリントを眺めては、ただペンを回していた。いくらプリントを眺めても、何も浮かんでこなかった。何も見えない将来を考えては、僕はまた憂鬱になった。
そんなふうにプリントを眺めていたら、トントンと指で机を叩かれ、僕は反射的に顔を上げた。
「ねぇ、齋藤くんは、どの大学目指すの?」
と、隣の女子生徒が僕に聞いてきた。
「特にきめてないけど、多分国立かな」
「そっか。でも齋藤くんなら大丈夫そうだね。なんでも出来るし」
"なんでもできる"。
周りの人は皆、僕のことをそう言った。僕はこの言葉が何よりも嫌だった。僕を大層な人間として扱い、敬うのだった。僕は恐ろしかった。僕は自分がいかに愚かで、怠けている存在のかを知っていた。周りから見た自分と、僕から見た自分の差が、僕は体にぴっちりと壁がくっつくほどに狭くて暗い部屋に閉じ込められてるように苦しかった。
もう、やめてくれ。その言葉は、口に出すことができなかった。一度敬われてしまうと、僕はそれを裏切る勇気がなかった。本当に、臆病なのだ。太宰治が、尊敬されることは恐ろしい事だと言っていたのを、思い出していた。
「そうかな」
「そうだよ」