時計じかけのオレンジ

文学少女
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映画「時計じかけのオレンジ」を見た。

右目だけにメイクを施した主人公の顔のアップから、徐々にズームアウトしていき、不思議な服装と部屋が映し出される。そんな中、奇妙なBGMが流れている。そうして、この映画は始まる。冒頭から結末まで、この映画はこのような奇妙さを保ち、独特の作品世界を作っている。

この作品には二回の「反転」がある。盗みに暴力に強姦、主人公はとんでもない悪事を働き、両親や仲間の扱いも酷く、その結果、仲間に裏切られ、刑務所に入ることになる。そして、刑期が短くなる代わりに主人公は怪しい「治療」の被験者となる。それは、暴力や性的な衝動に対し、吐き気を催すというものだった。そして、主人公は出所し、家に帰る。

ここで、一回目の「反転」がある。主人公は、今まで自分がやってきたことが見事なまでに自分に返ってくる。両親は息子をいないものとして下宿人を住まわせ、道端で金を渡した老人は冒頭で襲った老人で、その老人たちから復讐を受け、助けに来た二人の警官はかつての仲間で、主人公の頭をつかみ水に顔を突っ込む。そしてもう一人はひたすらに警棒で主人公を殴る。ぼろぼろになった主人公が向かった先は、かつて襲った家であり、閉じ込められた部屋で、主人公は吐き気を催すベートーヴェンの第九を聴かされ、窓から身を投げる。

この時点で、僕ははっきりこの哀れな主人公に同情していた。いくら復讐されても、主人公は治療によって吐き気が込み上げ、ただその復讐を受けるほかない。たしかに、主人公は弁護のしようがない悪事を働いた人間で、当然の報いと言えるだろう。だが、どうしても、僕は同情してしまったし、多くの人がそうなのではないだろうか。

しかし、ここでもう一度「反転」があるのだ。飛び降りた後の主人公は、もう吐き気を催す様子はなく、精神科医のテストに対し、暴力的かつ性的な回答をする。つまり、元に戻ってしまうわけだ。元の救いようがない性と暴力にまみれた人間に戻り、この物語は幕を閉じる。

何と見事な構造だろうか。ショッキングな暴力を見せ、哀れなほどに報いを受ける主人公に同情させ、主人公が元に戻ってその同情を突き放す。

この映画は、何が「善」で、何が「偽善」で、何が「悪」なのかと、僕に問う。お前のその同情はなんだったのかと、僕を責める。やられた、と僕は思った。