四月十七日 自殺の観念によって生き延びること・本質的な文学者

文学少女
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公開:2026/4/17

 〈話すこと、考えることは、冗談を言うことや……でないかぎり、実存をごまかすことである。それは死ぬことではなく、死んでいることである。それは火の消えた穏やかな世界へ行くことであり、普段われわれはそこをうろついているのだ。そこではすべてが中断されていて、生は次々と延期され、将来へと延期されている……〉(「内的体験」)。これは自殺という観念(企て)によって生を延期するという、シオランの考えと重なるのではないだろうか。〈自殺という観念がなかったならば、人はたちどころに自殺して果てるだろうと、何度私は考えたことか!〉(シオラン「悪しき造物主」)。自殺という観念は自殺という実在を殺す。自殺について考え抜くことは、自殺という実在を殺し切ることだ。だからシオランは生き延びた。観念は現実を消し去る。これは独我論でも言えることだ。「転校生とブラックジャック」の議題にもなっていたが、現実に見え、現実に痛く、現実に動かせる体がある唯一の〈私〉というものが語られ、他者に共有された瞬間、その唯一現実であった〈私〉は観念に飲み込まれてしまう。なぜなら、唯一現実である〈私〉というものが、他者においてもそれぞれそのようにとらえることができ、唯一の現実が観念化されてしまうからだ。

 

 電気をつけていない薄暗い部屋で、僕は松浦寿輝の「巴」を読みふけっていた。窓から差し込む、カーテンに遮られたかすかな光が部屋に広がる、薄暗い灰色の部屋。僕の虚空な精神状態のような、薄暗い灰色の部屋だった。「巴」の退廃的な文章、それでいて密度の高い文章に身を任せているのは心地よかった。第三章「映写」に出てくる、昆虫と裸の少女が錯覚のようにその姿を入れ替えていく幻想的な映画の描写はすさまじかった。共食いをするカマキリの複眼が、やがて少女の瞳になっていく……。その映像を見ても興味深いだろうが、これは文章による描写だからこそ実現する映画のようにも思えた。言語芸術の本質を垣間見たように思える。映像(その他別の芸術媒体であれなんであれ)になった途端にその魅力が消滅してしまう、そこに言語芸術の本質がある。ナボコフの「ロリータ」はキューブリックによって映画化されているが、本来「ロリータ」が持っている魅力はすべて失われてしまうだろう。なぜならあれは言語芸術、全く本質的な言語芸術であって、言語以外の媒体になった途端にその魅力は何も残らない。過剰なまでに凝った文体、言葉遊び、信頼できない語り手……「ロリータ」を構成するそれらのものが失われてしまう。これは梶井基次郎の作品もそうだ。梶井基次郎の魅力はその描写(見ること、魂を移すことの信念)にあるが、それが映像になっても何も残らないだろう。あの末期の眼から見た風景は、言語でしか表現されないのだ。言葉遣いの隅々に、梶井の魂が吹きこまれているのだ。当たり前の話だが、文学の本質は物語でも構成でもない、言葉だ。言葉こそが文学であって、言葉に魂が吹きこまれていない文学は文学ではない。萩原朔太郎は梶井基次郎のことを〈本質的な文学者〉と称していたが、それはこのようなことを言っているのだろう。