第一部では次々に人物紹介がされる。殺し屋、作家、少女……など、多種多様な人物が登場する。その紹介には、どれも不穏な余韻が残される。これらの人物の共通点は、三月、パリ発ニューヨーク行きの、異常な乱気流に巻き込まれた飛行機に乗っていたことである。第一部の中でその飛行機の様子が、二回に分けられて断片的に描かれるのだが、その二回の間にはとてつもない違和感がある。日付の大きなズレである。人物紹介での飛行機の話、一回目の飛行機の描写では、日付は2021年3月10日になっている。しかし、二回目の飛行機の描写の日付は明かされず、オペレーターとのやり取りもどこかおかしい。そこでは<プロトコル42>という言葉が登場する。そして、人物紹介の中で確率論学者のエイドリアンが紹介される場面では、2021年6月24日に、飛行機に全く想定されていない事態が発生した場合の<プロトコル42>が発動したという連絡を受ける。おかしい。僕は自分を疑った。どうして日付がずれてるんだ? なにか読み落としたのか? その謎は、第一部のラストに明かされる。三月に離陸し、着陸した飛行機と全く同じ飛行機が、六月、突如上空に現れたのだった。
機体、操縦士、乗客は、すべて三か月前に着陸したものと全く同じである。そして、三か月前に着陸していた操縦士や乗客は普通に生活している(その間に、死んでしまった人もいる)。つまり、三か月のズレをもった重複者が、操縦士と乗客には現れてしまったということとなる。この「異常」事態への対応、そして、第一部で紹介された人物たちの重複者との対峙が描かれていく。自分と全く同じ存在(しかも三か月という奇妙なズレをもった存在)に対して、人間はどうするのか? ということに、様々な人物、そして、三か月の間に起った変化も人物によって様々である中で、描かれていく。この小説は大規模な思考実験だった。
僕は今、シオランの「崩壊概論」を読んでいるのだが、ちょうど、その中にある「反-預言者」という箇所に、人間の《自我》についての考察がある。
「われわれの行為の源泉は、自分を時間の中心にしてその根拠、かつ帰着点だとみなしたがる無意識の性癖にある。われわれは反射的に、また思いあがりもあって、小さな肉と心のかたまりにすぎぬ自分自身を、ひとつの天体と考えてしまう」
自分を重要な存在、中心、天体と思ってしまう人間にとって、重複者が現れるというのは、とてつもない大事件となる。重複者に対する登場人物の十人十色の向き合い方、世の中の動きが、鋭い洞察力によって描かれるこの小説は風刺的である。科学、哲学、社会、宗教への著者の博識ぶりが遺憾なく発揮され、エンタメ性に富んだ構成で物語が描かれ、それが頭を刺激していく。最高のエンタメ小説だった。