二月二十一日 ユイスマンスとモラヴィア

文学少女
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公開:2026/2/21

 シオランの言葉が、執拗に僕の頭に浮かぶ。どうしてこんな始末になったのだ?──生まれてきたからだ。僕は間違いだった。人は間違いだった。世界は間違いだった。この宇宙は、間違いだった。

 「カイエ」を読むと、不安に苛まれていた僕のこころが、いくらか、落ち着いた。シオランの言葉との距離が、さらに近くなったような気がした。

 「カイエ」の記録。

『自分の生誕を問題にするのは、それほど無意味なことではない。というのも、生きる不安のもっとも重要な要因のひとつは、まさに誕生なのだから』

『皆殺しの「天使」、黙示録の「獣」、その他なんであれ「破壊」の神、かれらこそ私が親近感を覚えるもの、私の〈兄弟〉だ』

『私は地獄の底にいる。その一瞬一瞬が奇跡である地獄の底に──これが私の生の感情だ』

 「生誕の災厄」の一節。〈それは分かっている。しかし、分かっていることがなんの役に立つ?〉分かっていること、それは解決にはならない。僕の苦悩も、こころの醜さも、いくら分かろうと、分かるだけだ。物事はすべてそうだ……。

 ユイスマンスの「さかしま」。嗅覚、味覚の執拗な描写。この小説ではすべてが執拗に語られる。色も植物もラテン語も絵画も、強迫観念のような執拗さで、機械を分解しその内部構造を綿密に調べるように、緻密に、細かく、ユイスマンスは語る。これはモラヴィアの心理描写を彷彿とさせる。〈まるで脳内を解剖するかのように登場人物の思考回路を分析し、修飾語を重ねながら、執拗なまでに緻密に描写するモラヴィア節の確信犯的な過剰さ〉(「同調者」訳者あとがき)

 フッサールとフーコーを読み進めた。

 届いた本。G・ドゥルーズ・F・ガタリ「アンチ・オイディプス(上・下)」