僕は震えた。「内的体験」第二部の「刑苦」に。胸の奥から湧き上がってくる振動を感じた。バタイユの言葉が僕を鷲摑みにし、僕を引きずり込んだのだ。〈私はとても若くて、混沌としていて、虚しい陶酔で満ちあふれていた〉。そんな不安と絶望のなかにいたバタイユの頭のなかで起きた爆発、花火、飛翔。《無意味》に取り囲まれ、苛まれ、束縛され、身動きが取れなくなっていく僕に、バタイユの爆発が轟いた。〈私はこの「虚無」のなかで未知なるものとなった、突然に……私を閉じ込めていたあれら灰色の壁を拒否して、一種の法悦に飛び込んだ。私は神々しく笑っていた〉。灰色の壁! それは恐らく、ある種の人間を閉じ込め、〈倦怠〉の深淵に墜落させる、恐ろしい暗闇、生気を吸い取る夢魔だ……。バタイユはそこから爆発した。暗闇にひびを入れ、虚無の霧を吹き飛ばした。〈神々しく笑っていた〉という言葉、《笑い》という動詞と《神々しい》という形容詞の一見奇妙な言葉の組み合わせが、火花を散らし、バタイユのいう「極限」「むきだしの体験」を鮮烈に映し出している。〈人間は観想ではなく(人間は、逃げなければ平安を得られない)懇願であり、戦争、不安、狂気だ〉。僕は間違いなく不安と狂気であるが、僕に限らず、あらゆる人間に僕は不安と狂気を垣間見る。人間の奥底に渦巻いている狂気、それが僕の目にありありと映る。優しさもひとつの狂気だ。共感もひとつの狂気だ。人間の行為は間違いなく狂気を基盤にしている。狂気無き行為が可能だろうか?? 生きることは、すでに狂気なのだ。《無意味》という事実の中で、思考する人間が生きること、これが狂気なくしてありえるだろうか!? はっきり言って、この世の中は狂っているが、狂い無くして人間の共同体はないのだ。そもそも人間は狂気なのだから。僕もひとつの狂気だ。狂気によって、僕はこの日記を書いているのだ。