野谷文昭「越境するラテンアメリカ」にある「ニュージャーナリズムとガルシア=マルケス」によると、ガルシア=マルケスはカポーティに影響を受けていたという。これは意外なことだが、考えてみると、カポーティの「ゴシック・ロマン」「シュールレアリスム」と評される幻想的な初期作品は、ガルシア=マルケスのマジックリアリズムの世界と重なっている。カポーティの破壊的な幻想性、魔術性は、ガルシア=マルケスの小説世界でも同じことが言えるように思う。破壊的なのだ。カポーティのそれは精神的な不安定性、ガルシア=マルケスのそれは革命や戦争といった社会的な不安定性に根ざしているように思う。
僕はカポーティが好きだ。美しい文章、そして、〈親に見捨てられた子ども、暗がりのなかにひとり取り残された子どもをイメージしてしまう〉(「夜の樹」(川本三郎訳)解説)、さみしい物語世界。
「カイエ」の記録。
『夏は途方もない不可能性の季節。太陽は陰鬱な考えの提供者だ。陽の光に無と化した風景ほどメランコリーを誘うものはない。ペストのように夏を避けること』
『私の書いたものはみな深い苦しみに由来するものだ。これが私にできる唯一の弁明だ。私の本はどれをとっても、私が経験した苦難と悲嘆の要約であり、苦悩と苦渋のエッセンス、同じひとつの絶叫にほかならない』
『ある種の破壊欲が私にはつねにあった。だが、破壊といっても、それは形而上学的観点からの破壊であり、最小限の欲求として、コスモスの粉砕を意味するものだった』
友達が僕の家の前まで来て、自殺をしようと思っているという相談をしに来た。僕は、今それをするべきではないと伝えた。彼は、生きづらさ、人と違うこと、できない自分に悩んでいて、それをどうにかしたがっていた。僕は、生きづらいのは当然だと伝えた。この複雑な社会では、生きづらいのが当たり前なのだ。僕だってそうだ(そして他の多くの人も)。彼の生きづらさには、親の影響と思われる理想や完璧主義と自分とのギャップがあった。僕はその理想は捨てるべきだと言った。理想との差は、必ず苦しみになる。自分を正しく見積もること、卑下も期待もしないこと、それは、僕が少しでも生きやすくなるための方便だった。僕はとりあえず、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読むことを勧めた、シオランの、「一冊の本は、延期された自殺だ」という言葉と共に。思えば僕も、ひたすら本を読むことによって、自殺を延期させている。僕は死ぬまで自殺を延期させるだろう。これが、僕にとって生きるということだ。彼の姿は、昔の僕の姿と重なる。僕が彼にかけた言葉は、昔の自分にかけたかった言葉だった。あれでよかったのだろうか。家に戻った僕は、自分にそう問いかけていた。ただ僕は、ノイローゼによる自殺は止めたかった。冷静に考え抜いたうえで、自殺という結論にたどり着くのなら、僕が止める権利はないだろう……。
僕は自殺という概念に対して考えを巡らせていた。人間は、自殺した瞬間、完全に自由になれる。生きることを目的とした生物の思考プログラムに勝利する。思想としての自殺を完成させたのなら、それを行使することは、人間の根幹的な権利であり、誰も、それを奪うことはできない。思想による自殺。寺山修司は、「青少年のための自殺学入門」で、次のように述べている。〈家庭は幸福で、経済的にも充足しており、天気も晴朗で、小鳥もさえずっている。何一つ不自由がないのに、突然死ぬ気になる──という、事物の充足や価値の代替では避けられない不条理な死、というのが、自殺なのであり、その意味で三島由紀夫は、もっとも見事に自殺を遂げたことになる〉。