四月十三日 破壊的な本を求めて・語りえないものを語る

文学少女
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公開:2026/4/13

 クリプキの「指示と存在」を買いに本屋に行った。それを手に取り、少し読む。……しかし、どうも買う気になれなかった。今、僕が求めているものではなかった。存在しないユニコーンを名指すということはどういうことだろうという「存在と指示」のテーマは、たしかに興味深い。もしウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」で言うように《命題が現実の像》であり、《命題の総体が言語》であるならば、存在しないもの(ユニコーン)を名指すことは、できないように思われるが、僕らはしばしばそのような言葉を用いている。これは一体どういうことだろう……だが僕はこの本が買えなかった。僕が求めていた本、それはこの世界を、僕の世界を、思想を壊してしまうような破壊的な本であった。文学でも哲学でもなんでもいい、僕のこのくだらない観念をぶっこわしてくれ! 本屋でよく訪れるこの考えに、僕は取り憑かれてしまっていた(僕にとってそのような本はシオランの「崩壊概論」だ)。やはりカフカやシオランの言うように、本は、僕の脳を叩き割るような危険なものでなければならない。結局、僕が買ったのはバタイユの「内的体験」だった。

 〈この本は、ある絶望の物語だ。この世界は、解決すべき謎のように人間に与えられている。私の全生涯が──その奇妙な、乱れた諸瞬間、そして同様に私の重々しい瞑想が──、謎を解決することで過ぎていった〉(「内的体験」)。序文のこの言葉を見て、僕はこれを買ってよかった、これを買うべきだったと感じた。なにか僕を破壊するものであることを、ひしひしと感じたのであった。〈劇的なことは、あれこれの条件、肯定的条件(なかば絶望的な状態でありながら、救われる場合のように)において存在することではない。それは単刀直入に存在することなのだ〉(第一部)。僕は永井均の、哲学の驚き(驚きによる哲学)、〈私〉の驚きを、思い浮かべた。〈いつも同じように在る、このごくふつうの在り方が、滅多に起きない不思議なことのように見えてしまう、そういう驚きが問題なのだ〉(永井均「哲学探究1 存在と時間」)。〈私〉とは何か、そもそもこれは何か。これは何とも対比されず、これが在ることが空前絶後の事実であり、驚きなのだ。この劇的なことはバタイユの言うように単刀直入に存在する。端的に、単刀直入に存在するこの〈私〉! これは言葉にできないもの、無言の存在、単刀直入な、むきだしの存在だ……。だが、僕らは語る。〈母親のような忍耐強さで自分自身と戦わなければならないのだ。われわれは、言語的な隷属から逃れて残り続けるものを、自分のなかでつかまえようとする〉(第一部)。言葉からすり落ちていくもの、言葉にした途端に零れ落ちてしまうもの、この日記を書くなかでそれらは僕の手のひらから滑り落ちていく……だが、僕は語るのだ。言葉で握りしめて、たくさんのものが零れ落ちてしまったその手のひらに、とても小さなひとつのきらめく星が、きっとあるはずだから。