山口昌男「文化記号論研究における「異化」の概念」の《トリックスター》の記述。〈トリックスターの第一の役割は挑発的な行動にある。トリックスターは文化の規範から脱し、中心的価値に対しそれを否定し得る相関物があることを取り出してみせる〉。寺山修司という《トリックスター》は、前衛的な短歌や映画や演劇で、固定観念、形式、文化の規範を破壊し、挑発した。寺山修司は「異化」の概念そのものだ。
「カイエ」の記録。
『私という人間は、矛盾した衝動の場そのものだ』
『夢ほどにも屈辱的なものを私は知らない』
『思考を自己破壊の毒液と考え、自分そのものに鎌首をもたげるマムシの産物と考えること』
浅い眠り。悪夢と格闘し、〈眠り〉と〈覚醒〉の間をさまよう。疲労の回復のために眠りにつき、眠るがゆえに疲労する。睡眠の不条理。カフカの不条理な世界を生み出したのは、きっと、睡眠のなかで悪夢と格闘し発生するこの不条理な疲労だ。
映画「銀河鉄道の夜」を見る。星を眺めるようになったのは、「銀河鉄道の夜」を読んでからだったように思う。ジョバンニとカンパネルラが旅した宇宙、星々に、思いをはせていた。眠れない夜、僕はよく「銀河鉄道の夜」を読んでいた。天気輪の柱、白い十字架、水素よりも透き通る銀河の水を想像しながら……。「どこまでも行く」「どこまでも一緒」、これらの言葉は、今でも、痛切に僕の胸を刺す。これは、宮沢賢治が、いや、僕だって抱えている、この不条理の世界のなかで、心臓の奥に静かに形成された、透明な結晶、願い、祈りだ。どこまでも。そう、どこまでも。銀河鉄道は、宇宙の果てへと、どこまでも。
フーコー「言葉と物」を読み終える。読み終えると、この本のもとになったボスヘスの「ジョン・ウィルキンズの分析言語」で示されていたものがより鮮明になったように思う。それはいわゆる「分類」の問題であった。十五世紀以降のヨーロッパの思考の土台を解析していき、たどり着いたのは、形而上学の終焉、「人間」の出現であった。〈人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ〉。結局、「人間」とは思考の配置の変化によって出現したものであり、また思考の配置が変化すれば、消滅するだろうと、フーコーは主張している。〈そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと〉。