意識があることの違和感

文学少女
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公開:2026/1/7

 永井均は、小学生のころ、「私はなぜ、今ここにこうして存在しているか」ということを、ぼんやりと考えていて、その問題が、ウィトゲンシュタインの『青色本』において端的に表現されていたという。僕は、永井均に対して、同じような感覚を覚えたのであった。

 僕はふと、「意識がある」ということについて、強烈な違和感を抱くことがある。なぜ、意識あり、視界を所有し、この手を、肉体を、自在に動かすことができるのか。記憶している限り、僕は幼稚園児のころから、現在に至るまで、突如としてこの違和感に襲われ、気持ち悪くなるのだった。他の人も同じように視界があることを想像し、また、強烈な違和感を抱く。僕の「存在」そのものが、不可思議で、奇妙で、不気味で、身の毛もよだつ薄気味悪さがある。このことを考え始めると、この文章を書いている今でさえ、強烈な違和感が襲い、気持ちが悪くなってくる。

 永井均の問いとは、「『私』とは何か」、という問いである。なぜ私は、私なのか。「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」僕はこの問いそのもの、そして、それを永井均が子供のころから抱えていたということに、僕が抱えていた「意識がある」ことの違和感に関する、重大な何かがあるように思えたのだ。だから僕は、永井均の哲学と、ウィトゲンシュタインの哲学を、読み解いていかねばならないのだ。