今日読んでいた種村季弘の「影法師の誘惑」の中にある「魔術時代の終焉」には、旧石器時代の洞窟壁画から、中世のカメラ・オブスクーラ(幻燈)を経て、現代の映画に至るまで、像を映し出す発明、魔法としての像に関する人類の軌跡が描かれていた。僕は、映画は悪夢であるべきという漠然とした考えを持っていたが、「魔術時代の終焉」に描かれる魔法としての映画の軌跡は、この僕の考えと呼応するものを感じ、また、僕が求めている文学、呪文としての文学という考えも、引き出されたのであった。「魔法時代の終焉」は、次の文章によって締められている。
『産業技術の進歩に魔術的思考が追従してきたここ百年の映画的なものの動向こそが衰弱であり、中心を喪失した昏迷ではなかったろうか。』
僕は近頃、科学主義、合理主義の蔓延する現代において失われつつある魔法、魔術、呪文といったものに関心を持っている。そこには、現代では軽視され、また、顕在化していないものの、人類の精神の奥に潜んでいる、なにか大切なものがあるように思える。そういった意味で、魔術的思考を失った映画は、『中心を喪失した昏迷』になるのだろう。
呪文としての文学とは何か。書物は、僕に作用する。そしてその作用は、僕の人生を歪めてしまうほどのものでなくてはいけない。それはある種の魔法であり、言葉による魔法、呪文である。文学は呪文であるべきだ。それは、カフカが「本というものは、僕らの中にある凍りついた海を叩き割る斧でなければいけない」とし、シオランが「書物は古い傷を開き、さらには新しい傷口をさえもたらすものでなければならない。書物とは、一箇の危険であるべきだ」としたように。ロートレアモンの「マルドロールの歌」に綴られている言葉には、魔力が宿っている。それはまさしく呪文としての文学なのだ。
僕は、書物に破壊されたいのだ。何もかもをずたずたに、切り裂いてほしいのだ。抱いていた観念をばらばらに砕き、強烈な稲妻を、炎を、僕の頭に侵入させてほしいのだ。
それから僕は、田中栄光の「オリンポスの果実」を読んでいた。「カフカ断片集」を探していた時に目に入り、読みかけだったことを思い出して、読み始めたのだった(結局、カフカ断片集は見つからなかったが)。田中栄光の、子供のようなあどけなさを感じさせる、素直な言葉のひとつひとつが痛切に胸に沁み、僕は言いようのない悲しみに打ちひしがれた。