「カイエ」の記録。
『不眠症患者は、自殺の、やむをえざる理論家である』
『〈机上の空論〉──存在を含め、これがすべてだ』
『ついいましがた、夜の散歩をしていたとき、オプセルヴァトワール大通りで、栗の実がひとつ足元に落ちてくる。「もう終わったんだな、一生を終えたんだな」と思う。そうだ、人間がその運命を終えるのもこれと同じだ。成熟し、そしてやがて〈樹〉から落ちる』
メルロ=ポンティの「表現としての身体と言葉」における言葉へのまなざしは、ウィトゲンシュタインのまなざしを感じさせる。それは、「言葉は現にどうなっているか?」という、現象学的なまなざしである。言葉にはそれぞれ固有の意味があるように思える。〈辞書〉のように、ひとつの言葉に対し、何かしら〈対応する〉固有の意味があると思えてしまう。しかし、言葉は「現に」そうなっていない。まだ言葉を知らない子どもは、〈辞書〉を参照して話していないし、親は言葉のひとつひとつの意味を教えているわけではない(そもそもそこには言葉が必要である)。〈語は意味を所有しない。意味を所有するのは思考であり、語はその空虚な外皮にすぎないのである〉。では、言葉の意味とはなんだろうか? 僕らはどのようにして文字という記号や音声から「意味」を引き出し理解しているのだろうか? それは身振りであり、所作であり、使用である。つまり《言語ゲーム》だ。ここがメルロ=ポンティとウィトゲンシュタインのまなざしが重なる部分である。例えば、僕のそばに水のペットボトルがあり、マラソンを走り終えた選手が僕に向かって「水!」と言うとしよう。僕はそばにある水のペットボトルを選手に渡すだろう。〈辞書〉では、「水」という言葉に「水を人に渡す」という意味はない。選手は「水!」と言うことで「水が欲しい」「水を持ってきてほしい」ということを表現し、それを聞いた僕もその意味を了解している。言葉とは「現に」そうなっている。
快晴には、笹川真生の「サニーサイドへようこそ」がよく似合う。