「カイエ」の記録。
『懐疑は哲学の始まりであり、そしてたぶんその終わりである』
『〈宇宙的な〉感情について──もしミミズが……大地に連帯感を抱き、そのことを宣言したとしたら、私たちはミミズにどういう態度をとるだろうか。ミミズを前より軽蔑しなくなるだろうか。それにこういうミミズの自覚に、どんな客観的な意味があるだろうか。私たちは、このミミズだ』
『言葉は分析されると、もう何も意味しないし、もう何ものでもない。死体解剖されたあとの肉体が死体以下のものであるように』
〈自分を衰弱させなければ、私にはある種の真実が理解できなかったのだ〉(「カイエ」)。この言葉は、梶井基次郎の言葉に、驚くほどに正確に重なる──〈自分は迷信的に神経衰弱に非ざればある種の美が把めないと思っている〉。
また、耳鳴りで眠れない。
梶井基次郎の憂鬱の美学──芥川龍之介の《末期の眼》にも近しいこの美学。黒く濁った憂鬱が、僕の体を満たすほど、世界は透明になっていく。そのとき、青空はより美しく冴え、星々はよりきらめき、ピアノの音色はより透き通る。憂鬱はきらめく。黒くきらめく。憂鬱に磨かれた言葉は、狂気的な透明さを帯び、太陽のようにぎらつく。宮沢賢治の「疾中」の言葉は、滴る命の血から昇華された、ぎらつく透明な美を纏っている。きっと、世界と僕の関係とは、そういうものなのだ。耳鳴りは、世界が、僕の言葉が、透明になっていく音だ。憂鬱が僕を黒く濁らせるほど、世界は純化し、僕の言葉は透明になる。そのとき、道端に佇んでいる今にも朽ち果てそうな枯葉は、きらめき、美しく、なる。憂鬱(または倦怠)とは、水平の力だ。地の底に伏せ、起伏が失われ、色彩が失われ、世界は透明になる。そして、言葉を生み出すのは垂直の力だ。憂鬱の美学の使途は、水平のまま、垂直の力を持たねばならない。〈精力、精力、願わくば神経衰弱と精力と共存せよ〉(梶井基次郎)。