Twitterがオワコンと言われてはや幾年。昨年、Twitter社に黙祷を捧げるつもりが米Twitter社の看板に黙祷を捧げ、我々が偶像崇拝を知らぬ間に体現していたことは記憶にあたらしい。
……いや、「Twitter民」が偶像を崇拝しているのは今も変わらない。対象はもはや悪魔のような扱いを受けるイーロンと名のついたもはや架空の人物だが。
実際のところ、元ネタであるイーロン・マスク氏はすでにX社のCEOを退任している。言ってしまえば、方針と初動で大きく「Twitter民」の意に沿わなかった程度である。……程度?
閑話休題。
Twitterの寿命が僅かになったことが現実味を帯びてきたことにより、少なからず避難先を用意する人も少なくなかった。その避難先として筆頭に上がったMastodonやMisskeyをはじめ、一連の影響でリリースされたと見られるThreadsを含む分散型SNSと表されるものだった。
一つ笑い話足り得るのは、Threadsは跡形もなく塵となって霧散しているに等しく、まさしく霧散型SNSということだ。
また、言うまでもなく、僕にとってはこの「しずかなインターネット」もその一環だ。すなわち、リスクの分散。分散型SNSのいう分散はマクロ視点であるのに対して、これはミクロの(僕自身の)リスクの分散。この場合に指すリスクとは、Twitter(X)がまた唐突にサービスの利用ができない状態になった際に僕自身にかかる負荷であり、もう少し噛み砕くとそれは「Twitter欲の発散」である。
言葉は賞味期限が短い。深夜に書いた手紙を翌朝に読むと悶え苦しむだなんて自称黒歴史の話は耳タコであるが、それは言葉の賞味期限が切れてしまっただけだ。とどのつまり、「Twitter欲の発散」とは言葉を賞味期限内に咀嚼し、消化する行為だ。概ね食事行為といって差し支えない。
一方で、言葉は醸成もする。かの『恥の多い生涯を送って来ました』の書き出しは並の人間が受ける衝撃としては充分なものだろう。そして著名人足らない僕の言葉でも、僕自身が読む限りで多くの腐敗の中に醸成していることがある。
結局のところ、ここは僕の言葉の標本で、やはり拡張版Twitterだ。