したためるは認めると書くようだ

camelo345
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公開:2025/12/29

ちょっと前に感想How to write的な記事が出ており、なるほどなーと読んでいた。みたもの=入力を言語に変換してアウトプットする。こう書くと簡単な入出力モデルだが、しかしそれをいえば全ては簡単なモデルに帰結する。肝は個々の特性とそれを包括する方法であって、特に人間なんてセンサ特性も内部処理機関も千差万別なオーダーメイドマシンであるから、これを一様に論じるのは容易ではなく、結局個々のチューニング手法を語るしかないし、なんならチューニングの仮定においてもこの入出力サイクルはまわっている。再帰的な言及過程があるわけだ。

と、ここまで書いておいてアレだが、私はここで私のチューニングの話をしたい訳ではない。ここで話したいのは「感想とはなにか」ということである。さらにいえば「感想はコミュニケーションか」ということである。もっといえば「感想はどういうタイプのコミュニケーションか」ということでもある。

簡単ではあるが論じるにはまず概観して分類する必要がある。「感想を出力する」といわれたときのマトリクスについて。

①公開作品(Public)に感想を公開する(Public)

②公開作品(Public)に感想を公開しない(Private)

③非公開作品(Private)に感想を公開する(Public)

④非公開作品(Private)に感想を公開しない(Private)

ざっくり4象限を設けたが、これにはグラデーションが存在する。公開作品は誰もがアクセスできる。非公開作品は便宜上この言葉にしたが、PublicとPrivateと考えてもらえればよい(そう書いておく)。Privateは究極的には友人が見せてくれたノートの落書きみたいになるのかもしれない。感想を公開する範囲もグラデーションがあり、SNSに大っぴらに書く、fusetterで限定公開、非公開に関してはここでは誰にも公開しない、ただ自分のメモで留めることが許される。

さて、ここからさらによくありそうな具体例を挙げていくと以下のようになる。これで若干はイメージが伝わるだろうか。

①SNSにタグ付きで感想を挙げる

②自分の日記にその日見た映画の感想を書く

③内輪での回覧(サークル内での批評など)

④(これは難しい)内心と呼ぶべきものかもしれない

私がなぜこのような分類をしたかといえば、つまりPublicとPrivateでは言葉が異なるからである。正確にいえば言葉の選ばれ方が異なる。

公開作品に公開感想を寄せるとき、そこには無数の目があるはずで、さらに商業的な天秤すらあるかもしれない。アテンションエコノミーの中でRTやツイート数が評価の俎上に上げられているのは周知の事実だ。その中でやり取りされている「感想」とは何か。

もう一つ例をあげると歌会がある。これはかなりグラデーションのところにあるとは思っていて、しかし歌会の持つ一種のprivate性が歌会に独特の雰囲気を与えていることに間違いはない。あえて分類するとすれば②だろうか。ここで欠けていた視点の話をしてしまうと、実は感想には話すか/書くかという部分があり、歌会では「話す」部分に比重を置くことでprivate性を確保していると思う。その場限りの会話としてしまうことで、ざっくばらんな言葉選び、一種の批評が成立する。会話は齟齬が仮に生じたとしてもその場の修正が容易でもある。

うだうだと書いてはきたもののハッキリ言ってしまえば、私は感想において自分が抱いたものを非公開にするかどうかとそれ以外の区分の差をかなり重く考えている。要するに、非公開のものが「真の」感想であり、しかしそれ以外の感想が全てコミュニケーションのレイヤーに入る以上、それ観測するのは不可能だと思っている。

自分が抱いたものを発信する、すなわち他の人間個体の感覚器官に届けようとするときに一種の変換が行われることは自明だろう。これは言語化、ではなくていわば礼儀みたいな種類のものだ(言語化は感想を出力する際のすべてに付随すると考える)。そしてそのレベルはもちろん感想の公開度合いによって異なるし、作品の公開度合いによっても異なる。

ここからどんどん考えながら書くフェーズに入ってきたが、私は感想を出力するのを恐れているのかもしれない。それは主にコミュニケーションのレイヤーに入るという理由で。

まず第一に往々にして「刺さる」作品はより個人的な事情によって「刺さっている」。よって感想というものも「真の」感想は自分語りになる可能性が高い。個人的な思い入れに呼応してその作品がより特別なものとなった際に、その感想をどのように出力すべきか。私の個人的な事情をどこまで公開すべきか。

二次創作は一種の解決策だと考えている。要するに自分も二次的に発信者に回ってしまうことで、抜き身の自分語りの怪文書感想を公開せずに済むという論理である。かつ私が受けたインパクトの大きさはある程度伝わるだろう。最近は短歌も覚えたので出力方法は多様になった。

もう一つは根源的ではあるが、私は観測者効果を恐れている。私が感想という形で何らかのアクションを起こすことで、私の好きな創作が歪むことを恐れている。ただこれは非常に基礎的な部分であるから、感想を自分の外に出す際に絶対に起こり得ることであるから、結論としては覚悟を決めろということなのかもしれない。あるいは低減する方法を考えるか。

翻って色々と書いてきたが、改めてやり取りされる(公開される)感想というものを眺めると、作者と読者のコミュニケーションに帰結するのかもしれない。いや、自分が作者の側に立った際の感触としてはアクティブセンシングが近いのかもしれない。そう考えると自分が発信したものに、何ら反応が返ってこないよりは帰ってきた方がマシ感はある。しかしながらそこに誠意は必要だと思うが。

こうやってうだうだコミュニケーションのことばかり考えているのは、私がその水になじめていないことの証左でもある。何も考えずに(は言い過ぎだが、上記の辺りを感覚的にこなせる人はいるはずで)発信をしたいなと思いつつ、今すぐにハードルは低くならないと思いつつ、いい感想をしたためたいなとは思っている。

メモ:あと感想を公開する是非(本来は作者にサシで伝えるのが理想か)とか、公開された他人の感想を読むこととは何かとか、公開のレイヤーで調整されているのは何かとか、を考えていますね。

@camelo345
さいはて。ドッペルゲンガーが勝手に書くので勝手に読んでください。