足がつかない

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※この文章は性被害に関する記述を含みます。

読むかどうかはあなたの判断に委ねさせてください。

積極的に自分を守ってくださいね。

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子どもの頃、水泳を習っていた。

まだ小学校低学年で初級クラスにいたとき、課されたのは「ボビング」という動きだった。

両腕を真上に伸ばした直立姿勢で水中に潜り、ブクブクと息を吐く。底に足が届いたらプールの底を蹴り上げる。浮上しながら両腕を広げて水面を叩き、パッと息を吸う。そしてまた潜る、その繰り返し。水泳の基本の呼吸を学ぶためのものだが、これがなかなか難しい。

とりわけ背の順前から5番以内の常連だった私は、深いプールに繰り返し落ちていくことが怖かった。足がつく前にジタバタして、溺れかけたこともある。コーチに救出されたが、同時に叱られたことを覚えている。

そんな私も小学校を卒業する頃には4泳法を習得し、何メートルでも泳げるようになった。ただ級を上げて選手を目指す気はなく、水泳を辞めた。相変わらず背の順は前から数えたほうがずっと早かった。

しかし、中学に上がると、予想を超える成長期がやってきた。気づけば背の順も女子列の最後尾。水泳の授業で底に足がつかないということは、考えられなくなった。

プールの底に足がつくことは、もう当然のことだった。

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今、水の中にはいない。でも、溺れているような感覚がある。

足がつかない。もっといえば、どこが底なのか、どこに向かって、あとどのくらい身体を落とせばいいのかも、わからない。

かといって、全身の力を抜いて浮き上がることもできない。妙に力んでいて、下手に動いてしまい、水面に上がれない。

私に起きた、あのことはなんだったのだろう。

あの事件につけていいラベルがわからない。そもそも「事件」と呼んでいいのかもわからない。

あれは本来犯罪だった。加害行為だった。

けれど、周りはあの人がしたことを「加害」とは呼ばず、私が受けたものも「被害」とは言わなかった。

たしかに「特殊」な現場だった。介護の現場。彼はトイレの介助中、ついでに(しかし執拗に)自慰行為の手伝いを求めた。「それだけのこと」で、私は被害者ではなく、「認知症による行動に巻き込まれてしまった不運な介助者」だった。

たしかに誰を責めていいのかわからなかった。果たして彼(の人格)を責めていいのか。「認知症だから仕方がない」のか。ケアの専門職として、受け入れられない自分を乗り越えなければならなかったのか。

それでも、私は傷ついた。それだけは、わかる。

そしてその傷を主張すればするほど、加害や被害の関係でこのことを捉えていない周囲から孤立していった。

私はただ、「勝手に傷ついて、取り乱し、再起不能になった介助者」だった。

***

私はその職場から逃げた。幾度の話し合いの末に異動をし、新しい環境で生活を再建しようとしている。

幾度の話し合いのなかで、前の上司もこの問題のマトリックスの一端に気づいたようだ。正直、遅い。遅すぎる。でもまだよかったのかもしれない。

「事件」は少し前に進んだ。私も健康を取り戻し始めた。螺旋階段を登るように、ぐるぐると、ぐるぐると。

そんななかでも、やはり、私はこの「事件」の落とし所を見つけられていない。今日も何度も見たあの情景に身体が硬まる。

この傷になんて名前をつけたらいいのか。

あれはいったいなんだったのか。

底に足がつくまで、まだ時間がかかりそうだ。

ジタバタして、のんびりして。

とにかく待つしかないのだろう。

底を蹴り上げて浮き上がるのはもっと先だ。

それでいい。


BGM: Kesha - Praying

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出てきた言葉をそのまま書き置く場所。ふつうのふりをしない場所なので、あしからず。執筆者は福祉の畑の事務職。元介護職。 本棚はこちら: booklog.jp/users/canvas02