犬と社会

宮崎笑子
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 五月なかば、なんとなくむしむししていてどうやら明日未明から雨が降るらしいようなそんな夕方の帰り道の狭い路地を、犬を連れたマダムたちが占拠していた。

 さまざまな場所で時折遭遇する光景である。本日のマダムたちは総勢サッカーチームが組めるくらいの、バスケの試合が始められるくらいの、大漁だった。

 彼女たちが何をしているか、答えは明白である。

 自分たちの飼い犬をだしにしておしゃべりがしたいのだ。その証拠に、リードでつながれた犬は「はよ行こ」と言わんばかりに飼い主の手を引っ張るが、マダムたちはそちらを見もせずに腕に力を込めて犬を行かせない。

 ここにいたいのだ。

 主目的が犬の散歩なのか、それとも同じ時間帯に犬を散歩させる犬友達とのおしゃべりなのか、そこまでの真意は測りかねるが、まあ、路地を占拠している今この瞬間はどう言い訳してもおしゃべりが主目的である。

 遠くから歩いてその光景が見えたとき、ヤだなあ、と思った。わたしは幼少期リードが外れた犬に追いかけ回されてから犬が苦手なのだ。そのときの飼い主には、謝罪もなく「逃げたら犬は追いかけるに決まっている」と逆説教されてから、犬を連れている人、というのもうっすら苦手だ。

 さて、ルートを変えたいがこの路地を更に曲がってしまうと家が遠のく。しかしわたしが歩いてあの地点に辿り着くまでにおしゃべりが止むわけがない。

 そうこうしてちんたら歩いているうちに、いつまで経っても散歩コースに復帰してくれない飼い主たちに業を煮やした犬たちが、キャンキャン吠え始める。もれなく小型犬ばかり。

 そしてその吠えに驚いた別の犬も威嚇で吠え始め、飼い主への嘆願吠え、威嚇吠え、怯え吠えなどなどでめっちゃうるさくなり始めたそのとき、わたしは自身の目と鼻の先の犬端会議よりももっと遠く、路地の向こう側のとある存在に気がついた。

 電柱の影からそっと犬端会議を覗く、気の弱そうな眼鏡の小太りなおじさん。その足元で同じく電柱に身を隠しつつ様子をうかがっている小型犬。

 おそらく彼らの散歩コースなのだろう、この路地は。しかし犬端会議が開催されているせいで、犬は怯えおじさんは怯み、通れないでいるのだ。

 おじさんにも犬にも、コースを変えようというつもりは特になさそうだったが、わたしが犬端会議の横を気配をけしながら通りすがったのと同じくらいのタイミングで、彼らはしょんぼりと踵を返して歩いていってしまった。

 マダムたちよ、犬をだしにしないと集まれないのか。

 マダムたちよ、犬を散歩させてやれ。

 マダムたちよ、もう少しだけ周囲を見回してくれ。

 マダムたちはそうした図々しさで、きっと激動の人生を生き抜いてきて、日曜の夕方にのんきに犬を散歩させる生活を得たのである。

 もしくは若い時分はもっと繊細であったが、激動の人生のおかげさまでそうであれなくなったのかもしれない。

 はるか昔わたしを追いかけ回した犬も、催促で吠えた犬も、それに怯えて吠えた犬も、どの犬も全然悪くないけど、わたしはとにかく犬も、犬を連れた人間も、うっすら苦手なのである。

 さて。おじさんと犬の行方は、誰も知らない。

@castone
まだ見ぬ大騒ぎを待ちながらものを書く人。小説HP : nanos.jp/castone