友達と久々にあれこれしゃべって(恐らく答えづらい明るくない話もしてしまった)、今風呂場に一人きりになってふと思った。
「今日何食べた?」「明日何するの?」「来週のお出かけ楽しみ、何買う?」
とかとか、生きること、生きる前提の話をみんな当たり前にするけど、その逆の死ぬこと、死ぬ前提の話を全然せんのはなんでなんやろう。割と普通に疑問。
生まれたら死ぬのはごく普通の自然の摂理で、衣食住や三大欲求もごく普通に求めるものよな。でも、終わりの話をすることってまぁ少ない。不思議である。
子供の頃から死について、死ぬということについてネガティブもポジティブもありつつ何度と無く考えてきたけど、特に大きな問題もなく生まれ育ったら、考えることも少なく、言い換えれば考える価値の低いものとして存在するのかしら。絶対死ぬのに。
世の中には事前通知無しの他力一発ゲームオーバーが山程ある。外に出れば車は走ってるし事件もある、家に居ても地震や火事もある。そのまた逆に、家の中にも外にも楽しいことは山程ある。どれもある種等しいものやと思う身としては、なぜ明日明後日の予定を話すように終わりの話をせんのかが分からん。
なんなら死について考えることが非常に有意義、とえらく重いものやと捉えられてるのも不思議。そこにある、誰にでもある当たり前やから一緒なのでは?
もっと終わりの話をしよう。