大切な人を喪ったり大きなショックを受けることがあったりすると、今まで自分もいたはずの日常ってやつから突然爪弾きにされた感覚になる。それから水族館の水槽ほどに分厚いアクリルガラスの向こうから日常を見ているような。周囲と同じ時間のうえに立っているはずなのに。
傷が癒える過程の痛みを乗り越えながらようやく傷が塞がれたあたりで爪弾きにされたはずの日常にいつの間にか戻っていることに気がつく。それで、行き交う雑踏にすこし目を向けてみると、見た目では分からないけれど、分厚いアクリルガラスを隔てた向こう、かつて自分がいたほうに立ってるひとは今この瞬間にも存在するを知る。日常風景というのは往々にして煩わしいものであると同時に救いでもある。コンビニの油臭さ、電車の生温い車内、知らない人の話し声、見慣れた立て看板。全部が帰りを待っていてくれている気がした。
アクリルガラスの向こうに一緒にいるだけが優しさではないってこと。変わらない日常を営むことが優しさでもあるってこと。そういうはなし。