昨日このマガジンのタイトルを「チェス記」に定めたが、今日になって「他人の生活」でもよかったのではないかという気がしている。
「他人の生活」というのは、映画「善き人のためのソナタ」の原題を日本語訳したものだ。秘密警察の職員が反体制派の人物の生活を盗聴する話なので、他人の生活というのは極めて的を射たタイトルなのだが、それにしても詩的な邦題とのギャップが凄くて、気に入っている言葉のひとつだ。
今日は日本に遊びに来ている友達に京都を案内する約束をしていたため、当社比早く起きて街中の方へ出た。英気を養うために少し早く出て、ロフトと丸善を冷やかした。
彼女はスペイン出身で、今はスイスの大学で学んでいる。ヨーロッパにおける国境の薄さは、不自由だった時代のことを考えると喜んで見つめるべきことなのだろうとは思う。ただ、しかし、それはそれとして、純粋にクソうらやましい。私だってチェコにカジュアルに移民したい。
日本に不慣れな人をコンテンツとして消費する人々からは距離を取りたいと思っているので、あまり込み入ったことは書かず、行った場所だけ羅列しようと思う。嘘。事前に連絡なく恋人を連れてきていてありえん汗が出たことだけ、しるす。結局3人組じゃなかったら間がもたなかったと思うから、終わりよければ感はある。
ビーガンレストラン。道具屋。新京極の服屋何軒か。らしんばん、ビレバン(おたくの押韻)。丸善。大学。カラオケ。
疲れる予感がしていたので、用事があるので7時に別れたいと伝えていた。予感は的中し、四条河原町の交差点で別れた時にはもうヘロヘロで、それでも使命感のようなものに突き動かされて北へと向かった。今朝立ち寄った丸善で、古賀及子さんのエッセイ『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』『おくれ毛で風を切れ』と、イリナ・グリゴレのエッセイ『優しい地獄』を買おうと決めていたのだ。朝方チラッと見た時には『おくれ毛』のサイン本がまだ残っていた。買ってから待ち合わせに向かうこともできたのだが、荷物になるし、それより何より今日という日の重荷(失礼)を下ろしたその手でレジに運びたい。
『優しい地獄』は最後の一冊、古賀さんのサイン本も最後の一冊だった。助かる。父親がいない家庭を悲壮感なく当たり前のものとして構成員の視線から綴る文章はありがたい。学術書じゃない本は安い。ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい。
疲れてはいたが、このまま家に帰ると本に体温が移って二度と読まなくなりそうなので、電車を降りてカフェまで足を伸ばした。大学の近くのカフェなのだが、何度行っても思ったより遠くにあるという印象が拭えない、妙な立地にある。いつ行っても2階建ての広い店内のホールに店員が1人しかおらず、2階の半分近くのスペースを資材置き場が占めているが、その雰囲気が気に入っている。資材置き場の一部を隠しているカーテンの向こうで洗濯機が回っている音がしていた。
『優しい地獄』を読み始める前に、昨日この本について個人用の日記に書いたことをリライトして引用しておく。
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『優しい地獄』という、人生の本質を見据えたかのようなタイトルに怖気付いて手に取らずにいた本だが、〇〇さん(文筆家)がおすすめするなら間違いないというか、少なくとも厭世的な本ではないだろうと思う。そういう偏見に一番うんざりしていたのは自分なはずなのに、東欧から出てきて日本に紹介される文学は陰鬱なものだという思い込みもあった。
【私がしゃべりたい言葉はこれ(日本語)だ】というこの本の帯に書かれた文章は、他人事ではない切実さに満ちているようでもあるが、でも私は研究している作品の自分との関係のなさに惹かれているからなあと思う。自分とはあまりにも関係ない、それゆえに自分にはどうにも揺るがせないものに惹かれる。それが文化から養分を吸い上げ、同時にそこに深く根を下ろしてどっしり立っている姿に惹かれる。結局人肌と大理石のどちらに触れた時に心地よく感じるのかという話なのかもしれない。
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引用終わり。とかく疲れました 数えるからすぐに消えて(米津玄師-décolleté)。嘘です。行かないで。読んでくれてありがとうございます。
あまりの驚きに追記。ちょっと待ってよ。『優しい地獄』の文体にどことなくつっかかりを感じて表紙を見てみたら訳者の名前がない。どういうことだ。そういうことだよ。怖いなあ。