朝から雨。布団の中で後期の成績をチェックした。布団の中で成績をチェックするような人間の割にはよくやれたと思う。
昼頃にのそのそ起き出して、母と歩いて本屋に行った。今日はずいぶん暖かくて、今年初めてダウンコートを着ずに外出した。今ダウンコートと打ったら、「こ」まで打ったところで「だ」と「それ以降」で区切られたかたちで変換された。子どもかよと思った。
本屋では私の好きな文筆家の方の特集をやっていた。彼女のお勧めエッセイとして『優しい地獄』が紹介されており、一気に彼女とこの本と両方への好感度が高まる。人生の本質を見据えたかのようなタイトルに怖気づいて手に取りあぐねていたが、あの人がお勧めするなら間違いないのではないかという気持ちになる。
いま家で彼女の日記を読んでいたら、自分でも日記が書きたくなってきた。そういうわけで「チェス記」を開設した。日記というかZINEというか、眠れなくてスクリーンを見るしかやることがない時にダラダラ流し読みできるようなものにしたいと思っている。
チェコ語を専門にしているので、チェコ語で「チェコ語で」を意味する副詞、česky(チェスキ)からタイトルをとっている。チェスの記ではない。「私は」とかを省略せずにいちいち書いたり、「彼」「彼女」という言葉を使ったりするあたりに、日頃からヨーロッパの言語を翻訳している人間のくせが出ているなという自覚があって、個人的に自分の文章は気に入っている。
英語の副詞と形容詞の区別がはっきりとついたのは大学に入ってから、下手したら成人してからだと思う。これでも外国語を専門にできるというのは、いい時代になったものだ。職業選択の自由。
未成年だった頃は言語学の話をしているわけでもないのに副詞だ形容詞だとごちゃごちゃ言っている奴らを目の敵にしていた。しかし、一度副詞が何かわかると副詞の話をせずにはいられない。狭い範囲をぎゅっと串刺しにするような言葉を使う時に特有の快感がある。
本屋では他にチェコの糸などを売っていた。最近は脳が発達してきて、副詞と形容詞の区別がつくようになったほか、「チェコのものだけど正直いらないもの」を買わないという決断ができるようになった。
本屋の横にある系列店の雑貨屋に行ったら、ギャラリースペースで個展をやっていた。作家さんらしい人が在廊していたので、謎の義理を感じて足がスペースに赴く。案の定その人は作家さんで、「展示見てくれてありがとうございます」と言いながら名刺をくださった。他人の絵を見る喜びはあるが、それと同時に人間が苦手なのも事実なので、足早にスペースを離れた。チェコの切手を買った。
そのあとは本屋の近くのカフェに行った。3年ぶりぐらいに行くカフェだ。変わったメニューがあったのでそれを頼んでみた。空腹になった母がへそを曲げていて、子どもかよと思った。
家に帰ったら、郵便受けにアマゾンの袋に入ったバインダーがねじ込まれていた。紙を綴じるやつではなく、胸を小さく見せる下着のほう。日本語のタームもあるが、個人的にはすすんで使いたいとは思わない。
「その日の気分によって体をカスタマイズしたい」みたいな欲求が常にある。髪の長さだって日毎に変えられたらいいと思っている。胸を大きく見せる下着とバインダーを両方持っているのは一見筋が通らないように見えるかもしれないが、その背後にはこのような理屈があるというワケ。一方、バインダーのように特定のグループの人々にとって必需品であるものを娯楽として消費するのには一抹の罪悪感がある。条件だけ抜き出して書いてみれば伊達眼鏡と変わらんという説もある。
母が風呂に入っている隙を狙って装着してみた。サイドのホックを留める時に思い切り布を引っ張る必要があって戸惑う。結構苦しいのかなと思ったが慣れてしまえば案外平気で、今もつけたままこれを書いている。
今日は家族にとって、というより母にとって特別な日で、母は仕事を休んでいる。休日にもかかさず行っているメールチェックも今日はしていない様子だ。今日という日に特別な感慨はないが、日頃忙しそうな母がゆっくりできているようでとりあえず安心している。
追記。今振り返って見たら仕事をしていた。私の口に糊するために働いている人に偉そうなことは言えないが、それでもこの人は仕事中毒だと思う。