みなさん、文芸批評はお好きかね。今回のチェス記にはミニ批評があります。
その前にまあ昨日の話でも聞いて行ってくれや。
昨日は研究室の追い出しコンパがあった。私は教員がいる卓といない卓だったらいつだって前者の方に行きたい。ので、すかさず指導教官の前の席に行こうとしたら、幹事(女性)に「女性陣はよかったらこちらに」と言われ、座りにくい椅子が並ぶカウンター席に隔離された。言わずもがなむかつくのは当然として、私は男女混合グループに入れられるよりは男性の中に1人だけ混じっている時の方が気楽なので、かなり嫌なのであった。チッ!!!!!(爆裂舌打ちで、鴨川・淀川・大阪湾・琵琶湖を波立たせる。)
大学の近くにある謎のロシア料理屋を貸し切っての会だった。みんなはお酒を飲んでいたが、私は1杯目から空気を読まずに「ロシアンティー」を注文し、ジャムをロシア風の綺麗な木彫りのスプーンですくってはチミチミと舐めた。フライドポテトが出てきたのが嬉しかった。何らかの思想を有する企業を使用しない選択をする場合、揚げたてのフライドポテトを食べられる機会というのは本当に少ない。
全体的に話の長い人に絡まれることが多く疲弊したほか、それとは別個に嫌な出来事があって魂が削れたので、解散後に家の近くのスーパーでスミノフアイスを買って一人で飲み直した。昨日はそんな感じ。
***
今日は西宮までカレル・チャペックの演劇《R.U.R.》を観にいった。日本では《ロボット》という題で紹介されることも多い。現在ではインターリンガルな単語となった「robot」は、もとを辿ればこの作品に登場する造語だったのだ。
タイトルのところにWikipediaのリンクを貼りたかったんですが、Wi-Fiの調子が悪いので各自でおググりあそばし。劇のあらすじは後で書くので、別にググらなくてもよい。
研究室の仲間2人と一緒に行った。行きの電車では「読書ノートってどうやって取ってますか」という話をした。『想像の共同体』が全く頭に入ってこず1章読むだけで割れるような頭痛がするため、理論書をたくさん読んでいる人たちはどのように痛みに堪えているのか気になったのだ。かなり頭が切れると思っている同期が「『想像の共同体』は難しいですよ」と言っており、嬉しかった。基礎的な文献として紹介されることが多いので、これが読みこなせないようではお先真っ暗かもしれんと心配していたためである。
劇を見た後でモツ鍋屋で酒を飲んだ。モツは食わず嫌いしていたのでこれをいい機会と思って食べてみたが、食わず嫌いし続けるのが正解だったと分かった。食感に癖のある食べ物は好かん。鍋の汁にいいおだしが出ていたのでだしの染みた野菜をバリバリ食らった。
調子に乗って酒を2杯飲んだら帰りの電車で吐きそうになり、途中の駅で連れと別れて休んでから帰った。
***
劇のあらすじ。Wikiだと私の感想の前提となる部分が抜けているので書き直した。私のように固有名詞が苦手な人はこっちを読むことを検討してみると良いかもしれない。
主要な登場人物は、社長、社長夫人、会社に雇用されている科学者と建築士。社長室が舞台。
とある会社が、労働用に造られた感情をもたない人造人間「ロボット」を製造し、世界中に送り出している。ある日その会社の社長のもとを1人の若い女性が訪れ、ロボットにも心があるのだという自論に従ってロボットの地位向上をするよう訴えかける。なんだかんだで突如社長とこの女性が結婚する。なんで?
それから10年が経つ。人間たちはロボットに頼りきりになり、仕事を忘れる。ただひとり建築士だけが手仕事に喜びを見出し、神を敬う心を持ち続けた。
社長夫妻は、結婚してから10年が経っても子宝に恵まれることはなかった。それどころか世界中で1人も子供が生まれなくなっていたのである。社長夫人はこの事実に恐れおののき、人間がロボットを作り造物主の真似事をしたために天罰が降ったのだと考えた。彼女は、ロボットがこれ以上増えることがないよう、人工生命の作り方が書いてある秘伝の書を燃やす。これはロボット製造に不可欠なものであり、これが燃えるとともにロボットの製造法は永遠に失われた。
そこに、ロボットが反乱を起こしたという報が入る。社長の邸宅が見る間に包囲される。人間に反抗できないはずのロボットが反乱を起こすのは本来あり得ないことである。その原因は、社長夫人が科学者に頼んでロボットに魂を授けさせたことにあった。
社長はロボットたちと取引しようと考え、ロボット製造に不可欠な秘伝の書を交渉材料にしようと思い立つ。しかし先述の通り秘伝の書はすでに夫人の手で燃やされていた。船を使って脱出し新天地を築こうと言い出す者もいたが、その可能性も潰えた。彼らは打つ手がなくなり、皆殺しにされる。
ロボットたちは人類の中でただひとり建築士を生かした。彼は他の人間と違って自らの手を動かして仕事をするため、ロボットたちに同志とみなされたのである。
それからさらに歳月が流れ、生殖機能をもたないロボットたちは絶滅の危機に瀕していた。彼らは建築士を崇拝し、人工生命の作り方を解明して彼らを絶滅の危機から救うよう懇願した。
ある日建築士のもとを男女のロボットが訪れる。女型ロボットは亡き社長夫人に瓜二つであった。
建築士は女型ロボットを解剖して人工生命の作り方のヒントを得ようと思い立ち、男型ロボットにその手伝いをするよう依頼する。しかし男型ロボットはそれを拒み、女型ロボットの身代わりとなって解剖されようと申し出た。しかし女型ロボットはそれを許さない。
互いにかばいあう彼らの間に愛を見出した建築士は彼らを祝福し、新たなアダムとイブとして送り出す。
***
感想。
社長夫人の行動が話の展開に大きく影響を及ぼしている。「社長夫人が魂をもたないロボットを哀れんで魂を授けさせ、それがきっかけでロボットの反乱が起きる」、「社長夫人が良かれと思って秘伝の書を燃やし、それがきっかけで人間たちはロボットとの取引の機会を失う」。この「哀れんで」「良かれと思って」というのが人間勢力の足を引っ張るわけである。
彼女以外の人間の作中人物がみな男性であることを考慮すると、ここには「男の倫理」と「女の倫理」の対立が見出せる。「男の倫理」は功利主義であり、理性に支配されている。一方「女の倫理」を突き動かすものは感情である。「哀れんで」は言うまでもないだろう。また、「良かれと思って」の背後にあるきっかけ、すなわち社長夫人がロボット製造を悪と捉え秘伝の書を焼くことになったきっかけは、女性が子供を産まなくなったことに対する驚きと絶望であった。
作中人物のうち、子供が新たに生まれなくなったことに絶望するのは、女性である社長夫人だけである。このような作中での生殖の扱いは、生殖という行為を女性のイシューとして設定することに他ならず、まあ言ってしまえば前時代的である。批判というよりは、チャペックでもそこの壁は越えられなかったかという感情の方がでかい。チャペックの他のエッセイを読んでいるとまあ超えられんでしょうなという感想も出るが、それはまた別のお話である。
もうひとつ興味深いのが、手仕事の喜びを見出す人物が技師や科学者や営業(そういうのが出てくるのである)ではなく、建築士である点である。
建築とはすなわち居住環境を組み立てる行為である。それは人間を外界から守る行為に他ならず、人間の最も原始的な仕事のひとつであっただろう。技術に頼らない手仕事に意義を見出し続けた最後の人類が建築士であったことには、家づくりが人類最初の仕事のひとつであっただろうことと関連があると思われた。チャペックが他のエッセイで大工の手仕事を礼賛していたような気もするが、忘れた。
また、建築士は敬神の心を持ち続けた人物であった。作品全体を貫く一神教的なモチーフに照らして彼を考えてみても面白い。と思う。ナザレのヨセフの職業が大工だったこととか。建築士が最後アダムとイブを祝福する新しい神になったこととか。でもヨセフのくだりは説得力が弱い気がするんだよな この作品での神のあらわれはむしろ旧約的だから…
***
今日はもう終わったよ!!!!(島二郎)