今年のドラ映画の話のメモ

ドラえもんの話したくねえ。(USO800顔)

地球交響楽(シンフォニー)、まあまあよかったんですよ。という話をTwitterでもした。ここからネタバレがあるし遠慮はしない。この日記は俺が仕事の日の暇なタイミングの手慰みで1時間程度までで書くものなので途中で終わると思う。結論も落ちも真相もないよ。

この映画、やはり音楽を、旋律を奏でたかった。今忘却の旋律の話はしてないです。そうそう、見てる間ずっとXBOX360のRPGトラスティベル・ショパンの夢って単語が脳裏をひらめいていたんですよ、一瞬だけみんなの心をつかみ多分誰の記憶にもそんなに残っていないが、最後の森本レオのポエムが意味不明だったこととかなんでこのゲーム、ショパンなんだよ。みたいな根本的な疑問以外はそんなに悪いゲームでも無かったような気がする。どんな話だったのかビタイチ覚えてねえけど。

ショパンの夢の話はいい。ドラえもんの話をする。

今作はオーケストラ奏でたかったんだと思うんですよ。だから中盤はあんなにダラダラしてたしクライマックスはわりとものすごい勢いで話が進み、視点が広がり、そして急激に個にクローズアップして無音がくる。コンサートってそういうもんでしょ。その無音が「SF」と「物語」と共鳴してカタルシスが来る。この構図はうまかった。ただ、もちろんのことこれは難しい。物語の中に音楽を入れるのはよくあることだが、全体をオーケストラをモチーフにしようとするならキャラクターは音符でその組み合わせがメロディーで、キャラクター同士の掛け合いが、感情や行動が旋律になってなければならんのだ。それでいて物語全体が唸り、上記のクライマックスと無音のカタルシスにつながっていなければならない。

正直、音楽をモチーフにしている上に、新恐竜と宝島の監督なので全く期待していなかった。今回割とよかったことで川村元気が結局全部悪かったんじゃないかと思ってるが、割とよかったは上のようなギミックや、ゲストキャラクターとかが良かったからで、新恐竜や宝島で俺が心底受け入れられなかった部分の根本が改まったわけではないように見えた。

本作のいいところは、まず音楽と音をモチーフにしているところに自覚的な点。全体の構造がそうなのもておき、まず、OPにおいて「人間の歴史は、音と共にはじまりずっとともにあった」ということをこれでもかと強い映像的なメッセージを音に乗せて叩き込んでくる。環境音、BGMも気合が入っている、クライマックスのシーンで再度やられるが、世界は音に満ちていて、耳をすませば雑音のようでいて、そこには確かに音楽があるのだというメッセージが見える。

また、ゲストキャラが宇宙人のため最初は言葉が通じない。そこをのび太が下手な笛で、宇宙人が歌でコミュニケーションをとる。さらにそれをジャイスネしずかを増やしてもう一度やる。非常に良い。物語と今作のエッセンスとメッセージと歴史、全部詰まっていて良すぎる。

これらのこの映画の根本を構成するいい点、物語と構成の背骨がしっかりしているから非常にいい。そして物語を牽引するゲストキャラクターのヤダモン似の宇宙幼女も、ドラえもんにしてはえらい重めのバックボーンを背負わされていたが、キャラクターに魅力があり、ゲスト声優なのも知らんが適度な棒感が大変心地よく、物語を牽引するパワーにみちていた。

細かい点でもいちいちドラえもんがツッコミを入れて「そうか!」と自己納得するムーブを入れたりしてくれているので「まあドラえもんほどの実力者がそういうのなら……」の後方腕組みムーブをさせてくれたのもポイントが高い。

じゃあ、何が。悪いのか。

悪いというか、今作は上に述べたように大体いい。いままでクソミソに言っていた点がだいたいよくなっている。ただ異様に統一感がない。中盤が退屈で平和なRPGのマップ開けみたいな退屈さ「「音楽」ってみんなでやるとこんなに楽しいんだよ!」の押し付けがましさ。

この音楽をみんなでやると楽しい!! に対する俺の反射的な嘔吐は、多分俺の生来のものであるのでいちゃもんに近い自覚はあるのだが、齢42にしてギターをはじめて楽しい!! と思っている俺からすれば、音楽なんて楽しいはずがないのである。一文の中で自然に矛盾を放つな。違うんです、話を聞いてくれ。いや俺の話を聞かないでくれ。俺は一年経っても一人で、音が出て楽しい〜とやってる段階なのだが、その段階で人と音を合わせて楽しいはずがねえだろ。いや言いたいことはそこではなく、この「楽しいね!!」がくどいのである。そしてヘタクソがいきなり人と音合わせて楽しいはずがあるかの象徴であるかのようなのび太が、どうにもピンとこない。

音楽って楽しいね! の説明はもう、すでに述べたゲストキャラの歌とのび太たちの笛で音楽による対話をした時点で、そこにドラが道具でバックをしたてた時点でもう完成しているのだ。にもかかわらず、のび太たちに楽器を持たせて、のび太には当てつけのようにヘタクソなリコーダーを持たせ、ただ外れた音を「のび太ののの音だ!」と言って笑う。作ってて不安だったのかもしれんし、たぶんこの「のび太ののの音」のコスリは本来もっと多かったような気がしている。もちろん「ドレミではないノの音」なんてものはないのでただ単純にリコーダーで出るのかしらん高い音にすぎない。そんなのは子供でもわかるのに、そういうつまんない思いつきを物語の重要ギミックに据えて、看板たるポスターのコピーにする神経がマジで理解できない。客にも子供にも、この作品の他の部分を作った人にも失礼だと思うし本当に勿体無い。

この人が描くのび太たちはどうにも情緒に共感できないが特にのび太が理解できない。のび太を理解できないものとして描いているから、他の作品に比べてジャイスネのアタリが陰湿な気がするししずかもうわっつらを撫でているように見えてしまう。ただ今作はわからないものはわからないとしてジャイスネが「なんでお前ヘタクソなんだよ! やめて見てろ!」みたいなことをちゃんといってはくれるので、他作品のようになんの手順も踏まずにのび太がなんかどこから発生したかわからないあぶくの理路でジャイアンがほだされて納得したりはしないから最低限いいんだけど、上記の退屈な楽器練習楽団がRPGマップ開いて楽しいねを30分見させられたあたりなので退屈で死にそうになった。

この退屈を緩急を表現したくて出てきたものであるにせよ、詰め込みすぎなクライマックス、そこにたどり着くために明らかに丸ごと飛ばされたシーン、せっかくエモい要素なのにご都合主義でアイテムをくれるだけの人に成り下がらされ、やはり血の絆は強い! みたいな捉え方しかできなくなるゲストキャラ2 は本当に可哀想。どうして生まれたの。のび太のノの音をどうにか入れるためにせっかくよくできた物語がメチャメチャになっていたが、ものすごい豪腕によりクライマックスだけは整備されたため、終わった瞬間はいいものを見たような気になれるけどさ。

そもそも今作マジでのび太何をしたの? 道具でリコーダーの演奏レベルが上がったことを視覚化されたりしてどうにかなんかしたような気分にさせられるけど、のび太がやったことはゲスト宇宙幼女と仲良くなり、のほほんメガネとなれなれしく呼ばわれナメられてたけど、最後は何故かその頑張りが認められ「のび太お兄ちゃん」と認められるというエモがあるが、マジで何もしてなくないかこいつ。ハッスルねじ巻きで勢いよく宿題をやっつけただけだ。あと「ぼくだってドラえもんを助けたいんだ!」ってキレただけ。

今作もしかしたら、のび太の解像度が高すぎるのかもしれない。のび太は本来、これくらい何もできなくて然るべきで、何かやりたいことはあるけど何もできない。いい音楽がなっていても無感動。無感動だから意欲もなく、不器用。物語に流さて、言われるがままあつらえられたままに主人公のごとき視点を観客に用意するだけ。ただでさえ冒険ではなくずっと社会科見学をしている気分だったのに、パッとしない、俺によく似た主人公の、なんの役にも立たない姿を見せられ続け、お愛想のように「君は頑張ったね」とトロフィーを渡され、大団円が訪れる。

やはり気に食わない。お前は誰だと、新恐竜と宝島の、どこから出てきたのかわからぬ言動で自分と周囲をけむに巻き、それにやさしく乗ってあげて物語ごとママのようなご都合のクライマックスをもたらす物語にキレ散らかしてきた。あれがこの地球交響楽ののび太と同じだとしたらどうだ、お前のいうことばがあまりにも薄っぺらい、ただ借り物の、どこかから持ってきたヒロイックな言葉を叫んでいるだけじゃないか。と言われたから、今作では大して主張もせず物も言わなかったのだとしたら? 虚勢を張ることを制限された時、なにも発言も行動もできなくなる。だってそれがのび太だから、映画補正が入っても、お前は何もできない役立たずの、行動と言動が一致せず決断も工夫もできず、ただぐうたらと流れることしかできない。正しいと思って奏でる音は、いつも違うと言われてしまう。

なにをしても外れた音になる、ならば何もしないのがいい、クライマックスで教えてあげただろ、最後の最後に担当した凪が、無音が、それも音楽で、それがお前が一番上手くできる音楽なんだよ。だから黙っていろ。

それがお前だ。

"のび太くん、きみのことだよ"