紛失と喪失のはなし

みなみちはや
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カードケースをなくした。

クレカと保険証とタリーズのカードとかフェリカカードとして優秀なので入れているが交通マネーとしては二度と使われない残額39円残ったままのスイカとか病院のカードとかが入っている、大事なやつだ。

どこでなくす筈もないものがなくなることがある。

閉めなかったジッパー、はちきれそうな尻と浅すぎる尻ポケットの合わせ技、ポケットのマスクの出し入れと摩擦係数のハーモニー、車内と街中に潜む不穏と悪意の結実。

多分三日ばかり前になくしていたことにようやく気づいて部屋の中をひっくり返したけれど出てこない。クレカの利用履歴はないものの、さすがに面倒を引き起こしかねないのでアプリで停止すると即カードが再発行されることになった。人と話さなくてもいいのはあまりにも手軽だ、世の中はどんどん便利になる。さっさと左手にチップを埋め込んで欲しい。自由なんか要らないから左手をかざせばすべての会計と納税が終わるようにしてほしい。ついでに右手を掲げると火炎や雷撃がでたりすると厨二心も満たされるのだがだめですか? えっそれって自動更新の月額料金サービスなんですか? 音楽も聞けるんですか? でも右手を耳に当てないといけないんですか? それって事故りませんか? えっ微弱な電流が健康にいい? 江戸時代の本草学者みたいなこというねあんた。

なぜ、こんなにも簡単にものがなくなるのか、大事なものばかりなくなるような気がしてくる。それはバイアスだよ、のび太くん、だいじなものだからなくなったことにどうにか気づいているだけなんだ。きみはいつもたいして大事でないものをたくさんこぼして失っているのにそれに気づかないまま生きていくわすれっぽくておっちょこちょいで薄情な人間なんだよ。なんでそんなひどいことをいうんだ。だってのびたくん、たった今までぼくとの記憶をなくしていたじゃないか。

保険証の再発行を会社にお願いしないと行けないの面倒くさいよ、ドラえもん、なんとかしてくれよ。クレカの再登録もめんどくさいよ。なにもかもがめんどうくさいよ、インターネットで世界で手の届かない場所で起こっているすべての悲劇を人づてに増幅された悪意になったものを浴びている人々の声が面倒くさいよ、お前は悲しくないのか、声をあげないのかとわき上がる人々の視線が面倒くさいよ、のんびり生きていくだけで、たまたま手に入れた幸運な平穏をこっそりしゃぶって居られないのが面倒くさいよ。なにも考えずに生きていたいんだよ、新しいことも技術ももう受け容れられないんだ、走馬燈のセトリに新しく入れられる曲はもうないんだよ、若かった時の記憶のほうがどうしたって輝いているような気がするんだ。何で返事をしてくれないんだ、ドラえもん、汚いものをみるような目で見るくらいしてくれ。怠惰だとののしってくれ、見捨てないでくれ。新しい免罪符を安く売ってくれ。ノブリスオブリージュを海苔に印刷して薄汚い大盛りのラーメンに載せて食い切れないままグリストラップを詰まらせる人々を許してくれ。

カードケースの奥に隠しておいたはずの大事なものが、そのメモの中身が、何が書いてあったのかすらも思い出せないんだ。大事だからそばに置いておかねばならなかったから、入れて置いたはずのものなのに。大事だったことだけしか思い出せない。思い出せない。思い出せない。思い出せないものは、思い出さなくて良いとるにたらないことなのだ。そうして生きてきた、減ったフォロワーの名前も誰だったかのかすらも思い出せないのは普通のことだと思っていたけれど、ある日空気が綺麗なことに気づいてしまうんだ。

汚れた空が恋しかった。